孫正義氏の「電田プロジェクト」は本当に駄目なのか?(前半・擁護編)

エネルギー問題
SBエナジー「泉大津ソーラーパーク」2014年7月営業運転開始




昨年、ソフトバンク孫正義社長は、耕作放棄地などにメガソーラーを建設し、電力需要の数割を賄うとする「電田プロジェクト」をぶち上げ、賛否両論を巻き起こした。当時の管総理の熱意もあって、8月には太陽光・風力・小規模水力・地熱・バイオマスによる発電全量の買取を電力会社に義務付ける通称「再生可能エネ法」も可決した(*今年7月施行)。孫社長のプロジェクトの事業性は、この固定価格買取制度(以下FIT)における太陽光の買取価格と期間次第なので、現在は資源エネルギー庁の査定待ちの段階だ。

結論から言うと私はこのような普及策に反対であり、その理由は後半で述べる。気になるのは、事実に基づかない、又は合理的でない「間違った批判」が世間一般に多いことだ(これは原発に対する批判にも当てはまるが)。批判は批判でも、やはり正しくあらねば揚げ足取りと同じである。これに関して幾つかのポイントにまとめてみた。



1・そもそも自然エネルギーは“使えない”とする主張について

まずこれだ。私の考えでは個々に精査する必要があるし、中には非常に有望なエネルギー源もあると思うのだが、なぜか一まとめにして冷笑の対象にしている方々がいる。だが、こういった否定派の人たちは、水力発電のことをすっかり失念してはいないだろうか。

実は「川の流れ」などというものは本来「使えない気まぐれな自然エネルギー」そのままだ。水流は日によって一定していないし、昔の水車小屋のように水車をそのまま水に浸けても僅かな電力しか得られないからだ。

そこでどうしたか。ダムに水に貯め、落差を作り、管に導くことでエネルギーを高め、供給をコントロールする方法が考えられた。水流というよりは落下のエネルギーを利用するのだ。ダムの形状、導水管、水車の形状、発電の数式などが次々と工夫され、発明されていった。たちまち、水力発電は都市の電源となった。市電が街を走り、工場が電力で動き、家々に明かりが灯るようになった。こうして、「使えない自然エネルギー」を、知恵と工夫と技術によって現実に「使えるもの」に変えたのだ、1世紀も前の人たちが。

水力は現実に日本の電源の1割弱を担っている。よって「反原発派は電気を使うな」と主張する人に見習って、「自然エネルギー否定派は電気を使うな」とでも言っておこう。

2・太陽光はエネルギー密度が低すぎるとする主張について

これは体積や面積あたりのエネルギー量を表しており、自然エネルギーそれ自体に対して評されることもあれば、それを利用した発電を指す場合もある。好んで引用されるのが「もしヤマ」だ。すなわち、「もしも太陽光発電で100万kW級原発の代わりをしようと思えば、山手線の内側に等しい面積(6千ha超)が必要なのだ!」という、実に分かり易い例え話である。

たしかに、私が計算したところによると、原発の年間発電量を70億kWhと仮定し、効率15%のパネル(*設備利用率12%)を発電所用地の9割に敷設するとした場合、ほぼ「5千ha」もの面積が必要になる。また、風力ならどうか。大型風車で代替しようと思えば、互いに約200mの間隔は取らねばならないので、そのメッシュで考えると、直径100m級ならば「4262ha」もの面積が必要だ。このように、両者とも山手線の内側の面積をほとんど使ってしまう。自然エネを代表する両者のエネ密度が極めて低いのは事実だ。

私はこの「もしヤマ」にまともに反論してのけた人を今まで見たことがない。ところが、これはそもそもフェアな比較ではないのだ。なぜなら、発電の全プロセスを比較していないからである。太陽光や風力発電は元々のエネルギー源を採取する段階から始めている。この基準でいえば、原発はウラン鉱石の採掘段階を含めるのが妥当だ。1基の原発が30トンの燃料を得るためには数百万トンの鉱石を掘り返し、そこから天然ウランを製錬し、その中のU235を濃縮せねばならない。当然、広大な鉱区に依存する。

これは燃料源を油田・炭田・ガス田などから得ている火力にも当てはまる。おそらく、発電所が鉱区に併設されているケースの多い北米・ロシア・中国などでは、「もしヤマ」の例えが欺瞞的だとすぐに指摘されたに違いない。現実には、原発や火力は太陽光や風力以上に広大な土地や長大な輸送ルートに依存している。しかも、日本の場合、それは手の届かない外国だ。

結局のところ、エネルギー密度の高さという原発や火力のメリットは、要別途加工で枯渇性の燃料資源への依存というデメリットと背中合わせになっているのだ。逆に無燃料・無尽蔵をメリットとして選択すれば、エネルギー密度を犠牲にしなければならない。つまり、要は価値相対的なもので、単純に優劣をつけられる問題ではないのだ。

3・発電面積の「広大さ」を問題視する向きについて

だが、それでも発電機としてのエネルギー密度の低さを現実的な欠点と指摘する考えはあるに違いない。だが、そもそも商用電源でなぜエネルギー密度の高さが求められるのかをよく考える必要がある。他の発電所と違い、太陽光パネルは迷惑施設ではないし、それゆえどこにでも設置可能だ。よって貴重な土地を使う必然性はなく、屋根の上や荒地などの経済的価値の低いスペースを利用すればよい。逆に無価値な土地やデッドスペースを手軽に有用な土地に変えるのだから、他の発電所にはない働きである。

しかも、無制限に国土を覆い尽くす心配もない。なぜなら、総電力需要(1兆kWh)から最大面積が確定しており、かつそれは国土と比較しても相対的に小さいからだ。家庭用に多い発電効率20%タイプのパネルなら発電面積が50万haでよい。これは十キロ四方の土地が50枚分で、千葉県とほぼ同じだ。安価な15%タイプなら67万ha弱だ。もちろん、実際には需要のすべてをメガソーラーで供給することなどありえないので、どんなに多くてもせいぜい数十万ha以内に収まる。これは国土面積の1%以下だ。これを耐えられないとするのは、もはや主観の問題だろう。

世界のメジャー油田や炭田の広さはこんな程度ではすまない、と付け加えたい。しかも、それらは掘りつくしたら終わりだが、電田は太陽が昇り人間が適切に管理する限り枯渇しない。油田や炭田は環境規制のある場所では掘削できないが、電田ならばわざわざ辺鄙で無価値な土地を選ぶことができる(むろん、日照量が大いに越したことはないが、日本全国では極端な差はない)。つまり、メガソーラーが限度一杯まで増えていっても、客観的には誰も被害を受けなし、持続可能なエネルギーの自給率が大きく向上するだけだ。それでも問題視するなら、これはもう偏見の類いではないだろうか。

4・それでも土地がないとする意見について

とにかく日本は国土が狭いのだと思い込み、メガソーラーのために使える土地はないと主張してはばからない人には、具体的に例を示すほかないだろう。

08年の農水省調査では、将来的にも利用される見込みのない農地・荒地を47・4万haとしており、この中で農水省が「耕作放棄地(耕作の意思なし)」と定義したのが38・6万haである。これは埼玉県の面積とほぼ同じだ。孫氏の電田構想で改めて同地が注目を浴びると、昨年、農水省は約17万haが太陽光・風力発電に利用可能と発表した。

ただし、この方法には障害が多い。実は、耕作放棄地にメガソーラーを作る構想は十年前からある。だが、誰であれ日本の農業あるいは農地についてリサーチした人は、その異様さに気づいて愕然とするはずだ。09年の農水省の統計によると、田畑の面積は約424万haで、92%の利用率としている。ところが、これだけの土地に就労人口の一割も投入しながらGDPは約1%で、自給率も4割に届かない。いったいこの生産性の異常な悪さは何なのか。はっきり言ってしまえば、本物の農家は2割だけで、8割は片手間か、エセ・偽装なのである。農家(の真似事)をしていたら相続税・贈与税が免除され、各種補助金や奨励金の対象となる。だから日本は少し郊外へ行っただけで腐った地権者が入り乱れている。この奇々怪々な状況の責任が、長年彼らを票田とし、税法上の抜け道を黙認してきた自民党にあることは言うまでもない。いったん全農地を政府が取り上げ、本当に農業をやる個人や企業に無償で貸し出せばよい、と憤るのは私だけだろうか。

話が反れた。それに比べて、私がまだしも現実的だと思うのが、実はゴルフ場である。現在、全国に2400ほどコースがあり、総面積は約27万ha。東京都や神奈川県をゆうに超えている。だが、今や景気悪化に加え、少子化と若者のゴルフ離れによって競技人口が減少中だ。業界団体によると黒字が2割程度らしい。単純計算で赤字コースが20万ha以上も存在していることになる。大半のゴルフ場はあまりに不便な場所にあるため「潰し」が効かず、同じゴルフ場か、荒れ地にしかならない。一方、太陽光発電はメーカーの保守点検だけで無人ランニングが可能なので、異業種の参入がた易い。政府・自治体の支援や、政府系金融機関による融資などがあれば、彼らも安心してインディペンデントの売電業者になれよう。

東京電力は川崎市の臨海部に国内最大級のメガソーラーを建設したが、大都市圏の臨海部には、意外と遊んでいたり有効活用できそうな土地が山ほどある。だが、私がもっと有望だと思うのは、実はそれに隣接する「洋上」だ。というのも、日本の大都市の多くが海、しかも湾内などの「内海」に面しているからである。よって、そこに浮体式の太陽光パネルを敷設すれば、たちまち都市直結型の発電所が立ち上がる。メリットはなんといっても土地代がかからないことだ。また、蓄電・変圧施設などは陸に設置すればいい。送電の問題と施工アクセスの問題も解決している。

この「臨海部接岸型」を発展させた「臨海空港接続型」も有望だ。たとえば、北九州なら北九州空港、大阪湾なら関西国際空港と神戸空港、伊勢湾なら中部国際空港などが候補地として挙げられる(ただし、東京の場合は羽田空港の隣を利用するよりも、千葉側の湾岸接続型にしたほうがいいと思う)。これらの周辺の海を利用するだけで数万haものスペースが生まれる。送電と施工アクセスの問題を解決しながら、飛行場の利用者以外にはパネルが目にすら入らない。また、送電の問題があるが、どうせ洋上に進出するならば、領海とEEZ内の活用も視野に入れていい。本土とメガフロートのベースを海底ケーブルで繋げ、その周辺に浮体式パネルを展開する。たとえば1万haごとに1コロニーとし、日本近海に次々と浮かべていく。EEZ内の最多日照ポイントで、しかも太陽追尾式とすれば経済性も内地と変わりないのではないか。無線送電が実現すれば、ある程度の荒天回避能力をもつ移動式にすればいい。

科学的に正確な放射能汚染度とその真の影響は別として、一般に汚染区域と言われる福一原発から半径20キロ圏内の大半に、北西40キロの飯舘村付近を合わせると10万haを超える。ここにメガソーラーや風車を建てろという提案はすでに行われている。廃炉のそばで太陽光パネルのブルーの海が燦然と輝き、白い風車がまぶしく林立する光景は、新しい時代の到来を予感させる政治的な演出になるかもしれない。余談だが、この地域に放射性物質の吸収率の高い植物の種を散布し、草食動物を放畜したらどうかと思う。いわば自動除染装置のようなものだ。乳は集めて、灰などの固形物にする。動物の死体も同じように火葬する。単純だが、これを繰り返せば低費用で土地の汚染濃度を徐々に下げていくことができると思う。汚染灰は最終的に強酸で溶かし、重金属だけ分離すればいい。

5・自然を破壊する又は環境を悪化させるとする意見について

以上のように数十万ha分の候補地は存在している。要は知恵と工夫である。ところで、そのような大規模な太陽光発電は環境に優しいどころか自然破壊だ、とする意見を時々耳にする。なぜなら広範囲に日光を遮り、植物が受けるべき恩恵を横取りし、生態系を狂わせるというのである。また、農地(耕作放棄地)は自然と共存するが、環境を人工的に作り替えるメガソーラーは土地の“砂漠化”に等しいという意見もある。

このような考えの人は、普段、アスファルトの道路やコンクリートの大都会をなんと思っているのだろうか。広大な土地を埋め尽くす鏡のようなパネルが、その場所の自然を破壊し、生態系をある程度狂わせるのは事実に違いないが、便利さを追求する以上、これはもうトレードオフとしか言いようがない。自然をまったく破壊しないとなると、最終的に文明生活そのものを否定せざるをえなくなり、人間は農地すら放棄して森の中で狩猟生活をはじめる他ないからだ。

もっとも、メガソーラーの場合、日光は少し地面に当たるし、雨も吸収するので、都市ほど環境に悪いわけではない。たとえば、そのまま畜産業との併存が可能だ。むしろ日本の気候では、地面を舗装しないならば、牛・山羊などを放牧しないと、雑草が伸び放題になってしまう。また、土地に余裕があるなら、太陽追尾式のパネルとすればよい。パネルが刻々と移動するので、敷地の多くに日が当たり、草がよく育つ。この方式だと、一部の農業との併存も可能になってくる。さらに、架台を数メートルほど持ち上げたらどうか。この方法だと架台の値段が余分にかかるが、その下の空間が丸々利用できるので、かえってコスト安になり、しかも土地の価値が高まることも考えられる。というのも、これは「日照量は少ないが、雨や風は通す環境」を人工的に作るに等しい。日陰を好む野菜・キノコ・薬用植物などの農地としてぴったりだ。また、意外と水産養殖業とも相性がよい。魚や貝の生育環境は、日光が当りすぎても、真っ暗でも駄目だったりするので、屋内環境と照明が不可欠なケースが少なくない。このように、日光を遮るから必ずしも自然破壊に繋がり、土地を殺すとは限らない。むしろ日光が少ない環境を好む動植物もいるのだ。

以上、よくある批判に対して、私のほうから反論した。電田プロジェクトというより、メガソーラーそのものを擁護したといってよい。だが、むろん妥当な批判もある。最終的な評価はそれを含めて下さねばならない。

2012年01月9日「アゴラ」掲載

(付記:案の定、ゴルフ場はメガソーラーの有力建設地になりました)

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