2018年7月、麻原彰晃以下、オウムの主だった幹部13名が死刑執行された。
これに対して「真相が完全に究明されなかった」とする声が一部で上がっている。ただし、裁判を傍聴してきた江川紹子氏は「事実関係はほぼ解明された」とけん制する。
いったい、どちらが真実なのか?
そもそもオウム事件とは何だったのか? 実はこの事件には戦後から続く日本の闇が横たわっていた。私なりにその究極の真実に迫ったものが以下である。
オウム真理教の始まり
1984年、若干28歳の麻原彰晃はヨガ道場「オウムの会」を立ち上げた。
1986年にはそれを宗教団体「オウム神仙の会」へと変える。当初、麻原はオカルト雑誌に寄稿するなどしてオウムの名を広めようとしたが、信者はあまり増えなかった。
しかし、1986年末頃に出した『生死を超える』という本がヒット。
出版の時点で数十人に過ぎなかった信者が急増し、半年後には千人を超える所帯にまで膨れ上がった。そして1987年7月、自信をつけた麻原は、会を「オウム真理教」へと改称し、以後、本格的な宗教団体を目指すようになる。
オウムはまだこの時点では犯罪に手を染めておらず、牧歌的な部分さえあるオカルトチックなヨガ団体と評しても過言ではなかった。すでに終末予言を吹聴していたが、それは社会背景に基づく当時の流行であり、別にオウムに限った話ではなかった。
だが、問題はここからだ。この後、オウムは急速に暴走していく。
日本操縦の一環として新宗教を従えているCIA
このオウムの急成長ぶりを見て、ある組織が興味を示した。
それが極東CIAの宗教セクションである。なぜCIAが宗教団体を重視しているのかというと、社会をコントロールする装置の一つと位置づけているからだ。
宗教団体は巨大な集金・集票マシンでもある。政治家からすれば貴重な票田だ。場合によっては、秘密の資金源であり、選挙の際のサポーター供給源である。
だから、アメリカは、旧日本帝国(日韓)に対する占領統治の一環として、宗教団体を従えることを重視した。宗教団体を通して日韓の政治を間接的にコントロールするためだ。そして、彼らが取り込みに成功したのが新宗教系のT教会とS学会である。
T教会は韓国系であり反共主義を掲げる団体としても有名だ。戦後に立教し、冷戦初期にCIAに取り込まれた。一方のS学会は、戦時中に教祖らが弾圧を受けた。それゆえにGHQの占領政策を引き継いだCIAから、国家権力の監視役として引き立てられた。
それぞれキリスト教系のカルトと仏教系のカルトとして知られている。
よくマイケル・グリーンやリチャード・アーミテージといった特定個人を指して「ジャパン・ハンドラーズ」という呼び方がされる。ただ、日本をハンドルする役割を負っているものの中には、宗教団体やヤクザ・右翼団体といった組織もあるのだ。
ともあれ、この二団体を根城とする極東CIAはオウムに興味を持った。彼らは「隠れT教会信者」をスパイとしてオウム内部に送り込んだ。CIAマンはほとんどの場合、大勢のエージェントを統率する指揮官である。実働部隊の大半は下っ端の要員だ。
CIAのオウム内部への浸透、そしてバックアップの始まり
それから1年から2年後のことと推測される。
つまり、1988年の半ばから1989年の半ばまでの間だ。
なにゆえか、CIA本体は正式にオウムのバックアップを決断した。その結果、T教会とS学会から麻原のもとへ顧問が派遣された。
ちなみに、この間の88年9月、「オウム真理教在家信者死亡事件」があった。犯罪者となった麻原たちは、以後「引き返せなくなった」と言われている。
さて、本格バックアップに伴い、T教会の信者がオウムに大量入信した。彼らは主として早川紀代秀(極刑済み)の下につき、早川派を形成したと言われている。
顧問たちはオウムに洗脳テクニックや信者獲得のノウハウを伝えた。イニシエーション儀式と称するものや霊感商法、高額物品販売・セミナーなどは、T教会の宗教ビジネスの手口としても知られている。T教会はまたその種のビジネスに伴う裁判沙汰や、出家者と親権者の間のトラブル、脱会予防などの点でも経験を積んでいた。
さらに、オウムとT教会は、祭政一致の宗教専制国家樹立を究極の目標としている点や、終末予言や地獄に落ちる等の恐怖を刷り込みつつ「しかし信心すれば救われる」などと説く洗脳手法の点でも類似しているが、これはオウムの元からの性質と思われる。
オウムを精神的に追い詰め、弱味を握ったCIA
この時期、突然、サンデー毎日が「オウム真理教の狂気」を連続特集し、オウムをめぐるトラブルを大きく取り上げた。麻原は教団が社会から弾圧されているとして激しい憎悪を燃やしたという。
ちなみに、サンデー毎日の版元に強い影響力を持つのがS学会だ。つまり、この「オウム叩き」も、オウムを追い詰めるためのCIAサイドの自作自演とも考えられる。
1989年11月、オウムは教団をめぐるトラブルを担当していた坂本弁護士宅を襲撃し、一家3人を殺害した。これで幹部たちは発覚すれば死刑になる他なくなった。
先行の「在家信者死亡事件」と合わせ、オウムの「弱味」を握ったCIAは、彼らの生殺与奪の権限を握ったとも言える。これはもはや麻原が外部から派遣された顧問の言いなりにならざるをえなくなったことも意味している。
興味深いことに、オウムは、口先では、このT教会、S学会、CIAを「敵」と定めて非難していた。S学会の会長に対する暗殺も“実施”した。だが、不可解なことにこの計画だけは常に「未遂」で終わっている。世間と信者を欺くカモフラージュだったのではないか。
ただし、麻原もCIAがバックにいることは最後まで知らなかった可能性が高い。
なぜCIAはオウムのバックアップを決断したのか?
おそらくCIAは、初期の潜入調査により、麻原とオウムに関して以下のことを知悉した上で、二次団体を通じたバックアップを決断したのだと思う。
第一、日本の王にならんとする麻原の野望又その本気度。
第二、88年9月の「在家信者死亡事件」で“引き返せなくなった”こと。
第三、野望の実現のためにいずれは国家転覆という非合法路線に突っ走ること。
とりわけ彼らがオウムに好感を持った理由は、狂気めいた麻原の野望である。
麻原は自ら日本の王となり、この国を支配すること、又そのオウム専制体制をもって来たるハルマゲドンを生き抜き、やがては全世界を支配することを夢想していた。
麻原はこのような妄想に本気で取り付かれていたのである。そして、そのための手段として、彼は早くから合法路線と非合法路線の二つを想定していた。
“合法路線”とは選挙のことだ。本人たちは大真面目に議席を取るつもりだった。
もちろん、そばに控えて冷静に観察している第三者からすると、オウムの候補が社会から相手にされず、全員落選することは初めから分かり切っていた。その結果、彼らが社会に対する恨みと被害妄想を益々募らせることも。またその後、クーデターを起こして政権を奪取するという“非合法路線”に突っ走ることも・・すべては想定内である。
1990年2月、「真理党」を組織した麻原たち25名は、総選挙に打って出るが、案の定、全員が落選した。麻原は「不正選挙だ」と憤った。また、落選で巨額の資金を失ったオウムは以後、金を得るために益々手段を選んでいられなくなった。
ちなみに、総選挙出馬は早川紀代秀の提案が元になったという。
これを機にオウムの社会への敵意と被害妄想に拍車がかかった事実は知られている。
実際、裁判記録によると、翌3月には、麻原は早くも幹部を前に「現代人は生きながらにして悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」と言ったという。
いずれにしても、選挙の惨敗により、麻原が野望を実現するための選択肢は「非合法路線」以外になくなった。そして、それこそCIAが当初から待ち望んでいた状況だった。
だが、CIAは、本当に麻原の野望の実現を望んでいたのだろうか。そのためにバックアップを決断したのだろうか。実はここが肝心な点である。
そうではない。実現させるつもりは最初から毛頭ない。換言すれば、最初から失敗させるために影から後押ししたわけだ。そして、そこにこそ彼らの真の目的があった。
いったい、どういうことなのか? 彼らの本当の意図は何だったのか?
それを述べる前に、麻原の「日本の王となる」野望がいかに本格的だったかを述べる。
オウムの凄まじいクーデター計画
東京地裁は麻原への死刑判決文の中で次のように「量刑の理由」を記している。
被告人は,自分が解脱したとして多数の弟子を得てオウム真理教(教団)を設立し,その勢力の拡大を図ろうとして国政選挙に打って出たものの惨敗したことから,今度は教団の武装化により教団の勢力の拡大を図ろうとし,ついには救済の名の下に日本国を支配して自らその王となることを空想し,多数の出家信者を獲得するとともに布施の名目でその資産を根こそぎ吸い上げて資金を確保する一方で,多額の資金を投下して教団の武装化を進め,無差別大量殺りくを目的とする化学兵器サリンを大量に製造してこれを首都東京に散布するとともに自動小銃等の火器で武装した多数の出家信者により首都を制圧することを考え,サリンの大掛かりな製造プラントをほぼ完成し作動させて殺人の予備をし(サリンプラント事件),約1000丁の自動小銃を製造しようとしてその部品を製作するなどしたがその目的を遂げず,また,小銃1丁を製造した(小銃製造等事件)。
繰り返すが、上は公文書が記載している内容である(*赤字は筆者)。
ただ、実際には、上は時間的・人員的な制約の下でなんとか行いえた内容であって、もともとのオウムのクーデター構想は、もっと大規模で、かつ残忍なものだった。
彼らはサリン等の化学兵器を大量に製造し、それを軍用ヘリなどから大量に散布する計画だった。これで首都東京の中枢に壊滅的打撃を与える予定だったのである。
「諜報省」トップの故・井上嘉浩は、そのためにオウムは皇居を取り囲むように10箇所の拠点をつくり、「国家の中枢機関の破壊」を目論んでいたと証言している。
具体的には、国会議事堂や議員会館、中央省庁、警視庁、そして市谷自衛隊本部などを殲滅する予定だったようだ。とくに霞ヶ関の官僚を大量虐殺するつもりだった。
オウムが何のために教団内に現実を模した省庁制を作っていたかというと、クーデター後に自分たちが成り代わるためだった。たとえば、オウムの建設省だと、そのまま現実の建設省にスライドし、自分たちが幹部に就任するという具合に。
オウムはそのために化学兵器による大規模攻撃後、教団の歩兵部隊を出動させ、政府機関と放送局などを押さえて、首都を制圧する予定だった。ただし、日本の信者だけでは足りない。そこで彼らが目をつけたのがロシアであった。布教に熱心だった理由の一つは、ゆくゆくはロシア人僧兵を育成するためだった。当時のロシアは旧ソ連崩壊から間がなく、国民生活は貧しかった。一方で若者は国からすでに軍事訓練を受けていた。
こうして麻原は現体制を打倒し、日本の「法皇」になるつもりだった。それゆえ、最終的には天皇と並び立たないことは明らかだ。しかし、仮にオウムが「天皇御璽」を強奪したらどうなるか。少なくとも麻原は自演の勅令によって「首相」にはなれるわけだ。
おそらく、多数の政府要人を人質にした上、天皇による首相任命をメディアで公表すれば、自衛隊は動くことはできない。とくに天皇を脅して彼の口から政権移譲した旨を放送させれば、オウムの占領軍を攻撃する方が「逆賊」になってしまう。
麻原的には、最終的には天皇を脅して禅譲させればいい。そうすれば、いずれは首相と法王を兼ねた完全な独裁者になることができよう。
この「人質」と「勅令」を利用した作戦は、オウムの実際の国家転覆計画にはなかったが、要はやろうと思えば、このような方法も可能だったということだ。
(後半につづく)
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