このプロジェクトの、あるいはメガソーラーの、いったい何が駄目なのか? 以下から挙げていく批判は、前半で述べたメリットを覆すものである。よって、結果的に「持ち上げておいて、落す」形になるが、それは決して実現不可能との烙印を押すことが目的ではない。私の意図するところはまったく逆だ。本質的な欠点を指摘することは、それを克服し、今後の実現性に繋げていくためにも欠かせないプロセスであるとご理解頂きたい。
1・蓄電池なきメガソーラーは不良電源である。
自宅に太陽光発電システムを取り付けた人の中には、「高性能の蓄電池があれば電力会社に頼らなくてもいいのに」と思う人が少なくないそうだ。逆にいえば、それがない以上、電力会社のサポートに頼らざるをえないということである。
実は、同じことが国家レベルでもいえる。メガソーラーは夜間や雨天時に発電できない。ところが、電力需要は夜間であれ雨天であれ存在している。ということは、バックアップ電源と常にセットでなければ、メガソーラーは正常な供給業務が行えないということだ。
今は発電量に占める太陽光の比率が非常に小さいため、電力システムがこういった矛盾を吸収している。しかし、その比率が高まるほどに矛盾も拡大していく。たとえば、孫社長が一つの目標とした電源2割のケースを想定しよう。昨日までは全国的に晴れだったが、今日は雨だ。すると、2割もの電源が一挙に欠落する。中央給電所はその分の、火力や水力などの別の電源を作動させなければならない。晴れ時々曇りだと、発電と欠落が細かく繰り返されるため、中央給電所はより神業的なスイッチングを要求される。
では、太陽光だけで、1億8千万kWの夏ピークと1兆kWhの年間総需要に対応できる設備容量を整えたとしよう。「これでもう日本は電力を化石燃料や原子力に頼らなくてもいいぞ、100%自然エネルギーだ、万々歳!」となるのだろうか。日が沈めば誰もが気づくだろう、それと同じだけの、別の電源が必要だという単純な事実に。
こういうのを一般に二重投資とか過剰投資という。実際には電源をミックスするので、これほど酷くはならないが、それでもメガソーラーを増やせば増やすほど、バックアップ分も同様に増えていく(*これと同じことは風任せの風力にも当てはまる)。
電力システムでは、需要に対して供給が一致している必要がある。だが、われわれ需要家サイドは好き勝手に電気を使っている。だから、電力会社のほうでそれに合わせねばならない。よって、電源には一定の発電を続ける「供給安定性」や、オンオフや発電量を自在にコントロールできる「自在性」が求められる。天候次第で好き勝手に発電し、人為でコントロールできない太陽光や風力は“不良電源”なのである。
細かくいうと、電気品質の問題もある。一般に機械はモーターで動く。一定の周波数が保たれて、はじめてモーターが正確に動くのだ。よって、発電量が秒単位で変動する太陽光は出力が一定になるよう補正が必要だ。こういった対策を系統安定化という。ただ、出力変動は分単位・時間単位・日単位とある。太陽光を本当に独立した電源として「使える」ものにするためには、ある程度「日単位」の変動を吸収する必要がある。
この辺は議論もあろうが、私の主観では3~4日間の荒天を乗り越えられないと、火力などの既存発電の域に達しない。つまり、12時間分くらいの「貯電能力」が必要だ。これは大容量の蓄電池とセットにしてはじめて実現する。これによって、メガソーラーは「ダム式水力」に極めて近い性質の電源になる。夜でも雨の日でも電気を供給することができるのだ。ちなみに、3割くらいの損失を覚悟すれば、巨大蓄電池ともいえる揚水発電と組み合わせる手もある。私はこれを勝手に“ノーマル電源化”と呼んでいる。
翻って、今各地で立ち上がっているメガソーラーは、蓄電池がないか、あってもせいぜい分単位の変動を補正する程度に留まっている。電源比が小さい間は大丈夫だが、こういった気まぐれ・垂れ流し発電が拡大するにつれ、バックアップ費もまた急増するだろう。
2・未だ経済的条件を満たしていない。
政府による最新の試算では、メガソーラーの「発電単価」は1kWh30円程度である。といっても、一般の人にはこのコストがピンとこない。何でもそうだが、自分の身に置き換えてみると分かり易い。そこで、その経済性を実感できる簡単な方法をお教えしたい。
まず、この発電単価に10円をプラスする。これが送電・変電・配電・電力会社経費分と考えればいい。これでほぼ「電力単価」になるが、まだ家庭用と業務用の中間値だ。これに月間の消費量をかける。毎月、検針のオバさんが郵便受けに放り込んでいく明細票に「ご使用量」と記されている数値である。世帯平均でだいたい300kWhだ。ただし、四人家族なら400kWhくらいはいく。その合計値に、基本料金として大雑把に千円を足しておけばよい。家庭用ならその結果よりやや高めと考えてよい。
この考えでいくなら、メガソーラーの電力単価は40円。月に300kWh消費で1万2千円、基本料金を足せば1万3千円だ。これよりやや高めが家庭用である。
しかしながら、メガソーラーの発電単価が1kWh30円というのは、あくまで「原価」である。この単価で事業をしても儲けはゼロ。それでは発電ベンチャーはメガソーラー事業に進出しない。つまり、ある程度の「儲け分」を保証しないと、民間企業による電田プロジェクトは成立しない。これがFITの買取価格だが、現段階では推測だが、おそらく1kWh40円以上にはなるだろう。すると、電力単価では50円以上になる。これは四人家族ならば確実に月の電気代が2万円を突破する単価である。
むろん、これはメガソーラーだけの電気代なので、実際には「メガソーラーが増えるにつれこの価格に近付いていく」という表現が正しい。だが、電田プロジェクトの「電源比2割」でも、相当な値上げに繋がることは想像に難くない。
しかも、上で言ったように、これはあくまで「不良電源」価格なのだ。不良メガソーラーが増えるにつれ、同じようにバックアップ電源の増設も強いられ、それにより電気代はやはり値上がりする。では、大容量の蓄電池をセットにして「ノーマル電源化」すればどうなるか。当然、また別個に費用がかかる。今日、電力貯蔵用の蓄電池・コンデンサとしては、NAS電池、リチウムイオン電池、溶融塩電解液電池、レドックスフロー電池、電気二重層キャパシタなどが上げられる。私の試算では、12時間の貯電能力を付加した場合、もっとも安い溶融塩電解液電池でも1kWhにプラス8円の追加コストになる。つまり、「ノーマル電田」の電力単価はどうしても60円前後にならざるをえない。
業務用だと、今言ったようにこれよりもやや安くなるが、それでも電力の大量消費企業が日本を見限るには十分な価格といえよう。
3・FIT制度そものが間違っている。
このように、メガソーラーは「不良電源」であり、大容量の蓄電池と組み合わせて、はじめて火力や水力のように一人前電源たりえる。しかも、この不良電源の段階ですら「経済性」を獲得していない。こんなものを急速に普及させてしまう魔法が、昨年成立した通称「再生可能エネ法=FIT」なのだ。最初の二つが技術的・経済的な問題とすれば、これは制度や政治の問題といえるだろう。
よく指摘されるのは「政治的に公正を欠く。格差の拡大に繋がる」という点だ。実際、資本と土地がある人は太陽光パネルや風力発電機などを設置し、全量買取制度を利用して十年前後で償却し、あとは売電で儲ける一方となる。その請求書は都会のアパート・マンション暮らしの人々に回される。事実上、貧乏人から資産家への所得移転である。
FITで利益を保証された業者は安心してメガソーラーを建設することができる。電力会社はその気まぐれ発電の電気を全量、買い取らねばならない。それは電気料金として、結局は消費者に転嫁される。ちなみに、業者側はできるだけ経費を安く抑えようとするから、中韓製パネルを選ぶだろう。結果的に補助金の一部は外国メーカーの利益になる。
だが、私が思うに、最大の問題は電力システムの改悪である。大半の発電ベンチャーは投資回収の観点から、電源開発に時間と手間のかかる地熱・水力・バイオマスよりも、土地さえ確保すれば素早く整備できる太陽光と風力を選ぶだろう。実質、不動産屋のようなものだ。かくて、FITによって「気まぐれ発電所」ばかりが全国にどんどん増えていくことになる。
日本の自然エネルギー論者たちが夢見ている「地域分散電源の時代」の到来だ。彼らは今も口々に賞賛する。「FITによりドイツでは自然エネルギーが爆発的に普及した」と。それはそうだ。なにしろ、そのための制度なのだから。だが、これにより「最終的にどこへ行き着くのか。何が出来上がるのか」という点が議論されていない。私の考えによると、ドイツが最終的に創り上げるのは「非効率・高コストな二流の電力システム」だ。このような指摘は今のところ聞かれないが、FITは自然エネルギーの普及促進を目的としたものであって、もっとも優れた電力システムを作ることを念頭に置いていない。しかも、厄介なことに、矛盾が表面化するのに時間がかかるので、最初の20年くらいは誰もが非常にうまくいっていると錯覚しやすい。
この種の気まぐれ発電所は、火力やダム式水力などの「コントロールできる電源」が相対的に高い比率下にあって、はじめて商用電源として機能できるにすぎない。よって、太陽光や風力のほうが比率が高くなると、まず需給調節ができなくなる。供給自在性がないので、それならば「需要のほうをある程度コントロールすればいい」という恐ろしい発想が出てきてしまう。つまり、われわれ消費者の電力使用をスパコンで管理したり、制限を設けたりすることで需給の同期を図ろうというわけだ。それがスマートグリッドというやつで、万能どころか、現状よりもむしろ不便を強いるものだ。
自然エネ論者ほど分かっていないようだが、本当に太陽光や風力を「主電源」にしたければ、蓄電池とセットにすることが不可欠だ。それ抜きで、いくらFITで「爆発的普及」を目指したところで、結局は「火力や水力が主で、太陽光や風力が従」という関係を覆すことはできない。それをやってしまった反面教師がドイツなのだ。
太陽光や風力が急増するにつれ、ドイツは需給調節に難儀し始めている。石炭火力などのバックアップで綱渡り的に調節しているといってもよい。ただ、ドイツの場合、周辺国すべてと頻繁に電力を売り買い(需給調節)することで、この矛盾をある程度吸収することができる。周知の通り、EUの電力システムは一体化しつつある。だが、それでも本質的矛盾を克服することはできない。ドイツの電力マンがいかに優秀でも、いつか必ず壁にぶち当たる。私の予想では、不安定電源が発電量の半分に達した頃には限界がくる。ドイツの場合、それが30年度あたりだ。よってその頃に“スターリングラード”が訪れる。問題が噴出し、それまでの快進撃が止まるだろう。だから、今「ドイツに続け」などと扇動するのは、それこそ戦前と同じ過ちなのだ。
結局、ドイツは大規模な蓄電池の設置へと追い込まれるだろう。当然、何兆円もしくは何十兆円という巨額の費用負担をめぐって、消費者(家庭・企業)側と発電業者側の間で大揉めするに違いない。本来、蓄電池とセットでようやくノーマル電源であるものを、それ抜きで普及させてしまったのだから、当たり前の結末というほかない。その時、仮にわれわれが当初から蓄電池一体型で太陽光と風力を推進していれば、ドイツ人は必ずこう言うだろう。「さすがは日本だ。ドイツは日本に学ぶべきだ」と。ヨーロッパに学ぶべきは「哲学」であって「やり方」ではない。私は「FITというバスに乗るな」と訴えたい(*だが、もう乗ってしまったので、別途対策が必要だ)。
このFITの非常に厄介な点は、当初は矛盾が表面化しないところだ。だから、何もかもうまくいっているように錯覚する。最初の10年や20年では料金も少ししか上がらない。だが、この制度によって、大都市の電源が無数に散らばり、好き勝手に発電する状態になる。電力事業というのはトータルなシステムなのだ。上流となる発電部分でアブノーマルなシステムを整えてしまうと、その欠点を補う形で、その下流に位置する送電・変電・配電部分も次々と増強を強いられていく。最終的に消費者は莫大な損害を被るだろう。
総括
このように太陽光はポテンシャルが膨大でも、技術と経済性が今一歩、届かない。市場の力ではなく補助金がなければ普及させられないような製品は本物ではない。よって、長い目でみれば、蓄電池なしで、しかも補助金をエサに普及させるようなやり方は、アダ花のようなものでしかない。よって、「電田プロジェクト」は現時点ではアウトだ。
しかし、である。技術性や経済性は改善すればすむ話である。要は「知恵と工夫」だ。プロジェクトの底流にある基本思想は正しい。ここがポイントだ。孫氏は「電田は原発の代わりになる」と喧伝したので誤解や反発を招いたが、本来は原発とは平行関係にあり、原発のあるなしに関わらず素晴らしい構想であり戦略である。
前半であえて炭田やガス田などを比較として持ち出したのには理由がある。現在、商社や電力会社などは「日本の将来のため」に海外でのエネルギー資源の権益獲得に奔走している。日本はそうやって買い漁った石炭・LNGを発電所で燃やし、電気を生産している。だが、それならば国内に「電田」を建てることは、結果的に炭田・ガス田を所有することと同じになりはしないだろうか。いや、その電田が国内にあり、適切に管理すれば永久に枯渇しないことを思えば、それ以上の成果である。
それはいわば「権益創出」なのだ。われわれは今まで大金を投じて海外の権益を獲得してきたが、これからは国内の無価値な土地に投資し、太陽光パネルを敷設することにより、権益そのものを創出することができる。エネルギーを生む電田は立派な「日の丸権益」なのである。しかも、太陽光の電力化だけでなく、今や石油生成藻類などを利用することによって液体燃料化も可能になりつつある。こちらのほうは“永久油田”だ。
この「太陽光の電力化・液体燃料化」策を進めていけば、日本はいかなる資源国よりも優越する立場へとステップアップすることができる。地球上のどんな資源国も「永久権益」は持ち合わせていないからだ。適切な開発次第では、時間はかかるものの最終的にはエネルギーの「永久自給」へと繋がっていくだろう。当然、エネルギー安保上のメリットは大きい。また、発電燃料費が外国政府や資本に流れずに国内に落ちて循環するので、雇用創出にも繋がる。その分の外貨を稼ぐ労力からも解放されよう。
では結局、われわれはどうしたらよいのだろうか。今は「待つ」ことだ。大規模な「電田開発」に乗り出さず、あくまで太陽電池の効率向上と蓄電池の性能向上に粛々と力を尽くす時である。プロの電力マンを侮ってはいけない。彼らは今、メガソーラーやウインドファームを自ら実証運営し、技術的問題点とその解決法、経済性の改善方法などを研究している。このように太陽光や風力といった新自然エネルギーを「使えるもの」にしようと日夜奮闘しているのが彼らで、逆に彼らの足を引っ張り、いたずらに電力システムを危うくしようとしているのが、「使えない」自然エネ論者たちである。
われわれ素人が気にすべきは「蓄電池込みで1kWhいくらか?」という発電単価である。適切な価格はいくらか。この判断が意外と難しい。環境コストや将来コストなど、いろいろ勘案すべき要素があるからだ。クリーン・再生可能・国産という三拍子のメリットを考えれば、経済性の基準はやや甘くしても構わない。私の主観では「1kWh20円以下」ならゴーサインである。そのまま「電田」をぶっ建てていって、メイン電源を目指しても構わない。これは平均的な世帯で1万円くらいの電気代だが、政策出動による大規模な需要喚起で整備中にも経済性はどんどん改善され、結果として全体でみればさしたる値上げにならないと思う(*主観である)。
ただし、その時には、いちいち発電ベンチャーに整備してもらう必要はない。これはまた別途論じる必要があるが、私は「自然エネルギーの本格的な普及と電力自由化・発送電分離は反りが合わない」と考えているので、後者の政策に反対している。既存の電力十社、電源開発などの卸電力、そして自治体の公営事業体の三者が連携しつつ、公共インフラとして電田整備を進めるのがよい。「水と電気を金儲けの道具にするな」が私の考えだ(そういう意味で、今の民営電力にも問題がある)。
現在、太陽光パネルは、「発電効率の上昇・耐久性の向上・価格の下落」が進行中だ。だが、本当に電田を可能にするには、「発電効率50%・一平米価格5万円」くらいのレベルにまで到達する必要がある。現在は研究室レベルでようやく効率40%なので、まだまだである。効率が50%に届くのに十年、廉価な量産品になるのにさらに十年くらいはかかる。つまり、孫社長には残念だが、プロジェクトは2030年くらいに有望な話と考えてよい。今は駄目としても、将来性が潰えることを意味しない。むしろ、見通しは明るい。
しかも、太陽電池がこのレベルに到達した時、電田よりもむしろ「違った使われ方」をするだろう。それが「個産個消」である。このテクノロジーは電力会社そのものを市場から放逐してしまう可能性がある。それが登場した時の衝撃がいかなるものか、また稿を改める必要がある。
2012年01月12日「アゴラ」掲載
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