結局「今の原子力」ではガスと自然エネルギーに勝てない
このように、郊外はそれぞれ電力自立させ、地元産の自然エネルギーを使った地産地消システムに移行したほうが合理的である。
では、都市部用の電源としてはどうか。経済性の基準でいえば、今のところ原発は水力を除く自然エネルギーよりも優れている。だが、ガス火力と比べてみればどうか。現在、原発とガス火力の経済性は近似したレベルだが、前者は今後それが悪化していくのに対して、逆に後者は改善していく可能性が高いと予想される。
今日、日本は高価なLNGを購入しているが、状況は改善するだろう。アメリカでは天然ガスが英国単位あたり2~3ドルだが、液化3ドル・船賃3ドルと考えれば、輸入が可能化した暁には10ドル以下に収まる。一方、サハリンで液化した天然ガスを日本に運んで再気化するというジョークみたいな真似をしているが、パイプラインで繋げれば、「LNGで10ドルを割るのに、まさか気体モノがそれ以上ということはないでしょう?」という対ロ交渉も可能になる。プーチンは今、ガスを売りたくて必至だ。国産ガスに関しても、日本海側のメタンハイドレートが数十mの浅瀬に存在する事実が知られてきた。
ガス火力自身のさらなる高効率化も視野に入っている。今まで何度も取り上げたが、燃料電池と組み合わせた実証機が稼働中だ。小型化して、都会の真ん中でコージェネレーションが推進できることも、新宿や六本木で証明された。
このように、ガス火力には、単にシェールガス革命だけではなく様々な要素から成る「伸びしろ」がある。だいたい、ガス火力は丸の内に設置できるが、原発はそれができない。すると、単に発電単価だけの問題ではなく、本当は送配電も含めた競争になる。総合的に見れば、都市用電源として原発よりも経済的に優れた手段と化すことは明らかだ。
では、電源ミックスとして考えるとどうか。ガス火力より経済性の劣る電源をあえて併用するには、何らかのアドバンテージがないと駄目だ。たとえば、ベースロードとして安定しているとか、エネルギーセキュリティの観点から優れている、等などだ。従来はこの点で原発に存在意義があった。だが、もはや大型自然エネルギーで代替可能か、あるいは総合得点でいえば、こちらのほうが勝っている可能性すら出てきた。
大型水力は開発余地が少ないので、今後、新たな都市部用の自然エネルギーとして有望なのは、地熱・風力(とくに洋上)・海流の三つだ。これらに開発を集中するによって、20年ほどの期間があれば、3千億kWhを確保することも十分に可能だと思う。しかも、日本のどの都市も、どれかの大規模自然エネルギーに手が届く。この日本の地の利を生かすには、FIT方式よりも、かつての水力のような計画開発方式のほうが望ましい。
ただし、経済性では、廃炉・放射性廃棄物の維持費用、過酷事故とそれによって生ずる賠償金などを含めても、原発に劣る。しかし、一方で「それほど違わない」のも事実なのである。水力・地熱・風力などは、1kWh=10円前後だ。洋上風力は若干高めだが、浮体式で稼働率の高いポイントを獲得すれば、陸上風力とそれほど違わない。風力は供給性能に難があるが、洋上での大数運用と揚水発電の組み合わせによって安定化が見込める。海流発電はまだ研究開発段階なので未知数だが、私の独断と偏見に拠ると、将来的には三大都市圏の電源にもなりうる、日本でもっとも安くて豊富な自然エネルギーだと思う。
つまり、経済性の点でも、大型自然エネと原発との間に極端な差はないのである。そうすると、「クリーン・国産エネルギー・持続可能」のメリットがある分、どうしても大型自然エネのほうに軍配が上がる。
仮に総合得点で原発が勝るには、高速増殖炉と核燃料サイクルの商用化という空前の巨大システムの完成によって、燃料の完全国産化と持続可能化を達成するほかない。ただ、巨費を要する上、非常に煩雑で混み入ったシステムであり、実現の見通しが立っていない。
この点でも、フロー系のエネルギーの素晴らしさが際立っている。なにしろ、同じ事を屋根の上のパネルや風車が軽々とやってしまうのだから。
以上のことから、「今の原子力」は、経済性においてはガス火力に負け、総合得点においても自然エネルギー発電に負けていると言わざるをえない。よって、これからは両者のコンビに移行していくのが、時代の必然ではないだろうか。ただし、原発の撤退戦略を間違えてはならないのも確かで、それに関してはまた稿を改めて提案したい。
自然エネルギーのメイン化は可能
自然エネルギーをメイン化するために私が前回の記事で提案したのが、次世代型の電力システムだ。詳細は「真の電力改革と自然エネルギー普及策」に譲るが、着目したのはまず「自家発」である。世間でいう「電力自由化」は、発電と小売は自由化するが、送配電は公共財名目で逆に一事業体の独占にしてしまうものだ。流通過程に競争がない状態は、真の自由市場ではない。かといって、電線の新設競争を許せば社会として無駄や混乱を生む。
つまり、はじめから完全自由化が不可能なのが系統電力であり、どんな事業者が発電した電気であってもこの“社会主義部分”を抱えることを余儀なくされるのだ。
それに対して、太陽光や風力を使った自家発は、発電から消費まですべてユーザーでやってしまう。ある意味、このような個産個消こそ、本当の意味での電力自由化なのである。改革では、これを都市と郊外の区別なく普及させていく。
一方、電力システムそのものは、都市と郊外とに分ける。郊外は地元の自然エネルギーで独立させる。都市は今言ったように、ガスと大型自然エネルギーのコンビを主体とする…。
簡単にいえば、このようなものだ。現在の技術的・経済的・社会的条件下でいえば、この方法がもっとも合理的ではないだろうか。これからの日本は、迷わず自然エネルギー社会を目指すべきなのだ。なぜなら、それは「テクノロジーが主役の社会」でもあるからだ。“持たざる国”であっても、頭脳を高め、技術を磨けば、のし上がれる。しかも、技術さえあればエネルギーが枯渇しない分、いかなるエネルギー資源国よりも優越する立場になれる。これ以上、日本にふさわしい道があるだろうか。
断っておくが、私は日本の各エネルギー消費部門が、どんなエネルギーをどれだけ消費しているのか、だいたい把握した上で言っている。その上で、戦略さえ間違えなければ、自然エネルギーのメイン化は、長期的には可能であると考えている。
エネルギー進化論という考え方
以上のような考察から、私は脱原発と、ガス・自然エネルギー社会への移行を支持する。ただ、いささか気の早い話ではあるが、では「その先」はどうなるのだろうか。「真の電力改革と自然エネルギー普及策」のラストで、私はこう述べた。
「だが、ここで述べたものが、別に電力システムのゴールではない。『次』があり、『そのまた次』もある。進化はこれで終わりではないのだ」と。
これに関しては、ある程度「最良の電力システムというものを考える」という記事でも触れた。私の考えでは、まさに次が原子力なのである。一般に「原発を廃して自然エネルギーの普及を」というスローガンが謳われているが、そもそも本格的な自然エネルギー社会の前に原子力社会が到来すること自体がおかしいのだ。なぜなら、原子力はあらゆる自然エネルギーの根源であり、大本だからである。自然エネルギーの段階を飛び越していきなり原子力がメイン化するとしたら、それは何か無茶な、反自然的な行為を含んでのことだ。
以下に「エネルギー進化論」という考え方を紹介したい。
もともとこの宇宙は何もないところから誕生した。自然法則そのものが通用しないとか存在しない状態と言われている。ある時、特異点からいきなり世界が膨張して、この宇宙が生まれた。この宇宙創造をもたらした力を、仮に「無のエネルギー」と称するならば(*適切な名称があったら教えてほしい)、次に生じた「原子力」はその宇宙を維持し動かすエネルギーともいえる。とりわけ核融合は、恒星系を運営し、物質を複雑化する役割を担っている。地上のあらゆる自然エネルギーは、究極的にはこの原子力から生じている。
太陽光は直接的に由来し、風力・水力・バイオマスなどは間接的に由来する。地熱は惑星内の核物質崩壊熱に拠るという。惑星の運動や引力による潮汐や海流なども、恒星の原子力活動あってのものだ。原子力はこういった「フロー系」のエネルギーたる自然現象を生じさせる。そしてこのフロー系のエネルギーが炭素を循環・蓄積させ、「ストック系」のそれを作り上げる。興味深いことに、文明の進歩に従って、人類社会のメインエネルギーがこの順番を遡るようにして変化していく様子が見て取れる。
人類が最初に手にしたエネルギー源は、ストック系としてもっとも手軽な「薪」(森林)だった。ここから「石炭」、「石油」、そして現在は「ガス」へと移行しつつある。もっとも低度のストック系である薪からすると、物質的には次第に水素比率が高くなり、技術的には扱う難易度がどんどん高くなっている。固体→流体→気体と扱う対象が変わるにつれ、採取・保存・輸送・利用の技術もまた高度化していく。ちなみに、最終的に水素そのものがメイン化する説もあるが、私はたぶんそれはないと思っている。
よくある誤解は、「近代に入って石炭や石油などの化石燃料を本格的に利用する以前は、自然エネルギー中心の社会だった」というものだ。これは間違いである。実際には、バイオマスに依存していただけだ。自然エネルギー(自然現象)が本当の意味で利用可能になったのは、水車と風車が発明されてからである。これらの製作には高度なエンジニアリングが必要だ。それでも19世紀後半までは、その場限りの動力として、巨大なポテンシャルのほんの一つまみを利用できるに過ぎなかった。
実は、電気技術と水力発電の発明によって、自然エネルギーの大規模かつ本格的な利用がはじめて可能化したのだ。自然現象を「電気」という万能エネルギーに変換することで、動力だけでなく、あらゆる方面に応用できるようになったのだ。しかも、送電によって空間を、蓄電によって時間をまたぐことも可能になった。
その後に、風力、波力、地熱、太陽光なども次々と電力化に成功した。つまり、電気技術という基盤があって、はじめて自然現象の真の利用が実現したのだ。そういう意味で、フロー系のエネルギーを定量化して使いこなすほうが、ストック系よりもはるかに難しいのである。
文明が発達し、人類がますます多くのエネルギーを必要とするようになり、かつストック系エネルギーの大量使用が惑星圏の炭素循環を乱す危険性に気づくと、「枯渇しないエネルギー」であるフロー系に比重を移すようになるのは、当然の経緯である。つまり、太陽光・風力・地熱・海洋エネルギーなどの巨大ポテンシャルに目をつけ、それをできる限り利用しようと人類が挑戦し始めるのは、自然の成り行きなのである。そして、フロー系の次として、その大元たる原子力に目をつけるのも、また当然のことである。
つまり、人類のメインエネルギーは、「ストック系」→「フロー系」→「原子力」→「無のエネルギー」という順番で、根源に遡っていく形で進化する。現在の地球の技術水準からすると、ようやくストック系からフロー系へと移行していく段階である。よって、これから一次エネルギー比で、ストック系の最終形態であるガスがメインになり、自然エネルギーに手をかけた状態になる。つまり、「ガスが主・自然エネルギーが従」の体制だ。
むろん、変化は止むことがない。その後も、脱石油に伴って、最終エネルギー消費で電力化率が上昇し、かつ電源における自然エネ比の割合が増えていくはずだ。この需給構造の変化によって、ガスと自然エネの比率が徐々に逆転していく。最終的には自然エネルギーのほうが主になり、ガスが従としてバックアップに回るだろう。こうして、ガス文明は短命に終わり、持続可能文明の第一弾である自然エネルギー文明が誕生するのだ。
私の考えでは、戦略が適切であれば、2050年くらいには実現可能である。私は、持続可能文明のボトムラインがこの自然エネルギー文明であり、最低限、このラインに届かなければ、人類は長々期的には生き残っていけないと考えている。
以上のような考え方からすると、自然エネルギーと原子力は、エネルギーの位相が異なるだけで、本質的に矛盾するものではないことが分かる。よって、原子力それ自体を忌避するのはまったく間違いである。
時代はさらにニュー原子力へと向かう
今日、原発の問題とされているものは、原子力それ自体ではなく、あくまで「物質から原子エネルギーを取り出す技術や方法の問題」なのだ。原子力自身はあくまで純粋なエネルギーであり、自然エネルギーの根源にすぎない。ここを間違えると、「反原発派」ではなく単なる「反科学派」になってしまう。
今日、日本で主流の軽水炉は、枯渇性のU235を燃料とする。数十トンのウランを得るために、数百万トンもの鉱石を掘り返さねばならない。その跡地が巨大な環境破壊の爪あととなって残る。シリアス事故時には、暴走して放射性物質を拡散し、周囲の環境を長期間にわたって汚染するリスクを有する。発電後に生まれる高レベル放射性廃棄物は、今のところどこかへ蓄積する他ない。
このように、核爆弾から派生した、原子エネルギーを取り出すためのもっとも初歩の技術のため、未解決の問題を抱えている。ある意味、巨大なエネルギーに魅了されるあまり、矛盾や犠牲を厭わないまま導入を急いでしまった、未完の技術体系なのかもしれない。つまり、利用技術が未熟なため、まだ原子力は本格的な出番ではないと考える。
ただし、このように原発の問題とされるものが純粋に技術に由来する以上、それを改善する道もまた開かれている。よって、今後は、原子エネルギーを取り出すための別の技術、別の方法を模索する研究開発に舵を切るべきだ。元々、自然エネルギーの集約である以上、「クリーン・国産・持続可能」というその特徴を獲得することも不可能ではないはずだ。また、そのレベルに引き上げてこそ、真に実用に耐えうる原発だといえる。
今日、原発“推進派”の中には、現実には古い技術体系や制度に固執し、それを守ろうとする守旧派が少なくない。対して、「原子力革新派」という思想や立場があってもよいはずだ。
仮に、このような「ニュー原子力」の開発に成功すればどうなるだろうか。小型化して都市部の高需要地区にドンと設置することが可能になる。真っ先に千代田区の電源にすればいい。都市部電源としてのガス火力や石炭火力、水力・地熱・風力・海流などの大型自然エネ発電は、たちまち旧式化する。泣こうが喚こうが、不要なものは不要である。順次、撤去し、新型原発に替えていくべきだ。郊外はそのまま地元産自然エネルギーに依拠すればよい。
こうすれば、最終的に日本全体が「ニュー原子力+個産個消・地産地消」のコンビへと移行する。われわれが今知る発電所や送電線、鉄塔や変電施設などは、国土からほとんど消滅する。エネルギーインフラが驚くほどシンプルな姿に生まれ変わる。
では、本物の原子力時代の「次」はどうなるのか。「無のエネルギー」の発見と利用だ。つまり、量子空間から直接エネルギーを採取可能になる。この時代になると、原子炉も自然エネルギー発電機もいらなくなる。ほとんど撤去して、エネルギーの「全個産個消」体制へと移行する。ここで人類のエネルギー探求は、完全に終焉を迎えるだろう。
余談だが、私の唱える次世代型の電力システムだと、エネルギー進化論という理論と、実際の電力インフラの進化がうまく整合する。そもそも終着点が「全個産個消」なのだから、電力の進歩とともに送電線が減っていくのは、当たり前の話なのである。
以上のように、自然エネルギーが本格化すると、今の「未熟な原子力」は席を譲らなくてはならない。いったん自然エネルギーの時代になる。だが、「ニュー原子力」が登場すれば、今度は自然エネルギーのほうが主役の座を譲らなければならない。つまり、「原子力か、自然エネか」という二者択一ではないのである。どちらかをアイデンティティにしている人は、最良の答えにたどり着くことができないのではないだろうか。
2012年08月27日「アゴラ」掲載
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