なぜ石油に代わる最有力候補は天然ガスなのか?(後半)

エネルギー問題






なぜ原子力だけ先に限界に達したか?

ところがである。よくよく見ると、両者の増え方には明らかな差異がある。実はここが重要だ。天然ガスの供給は毎年のように拡大し、1%から20%まで極めて順調に増えている。対して、原子力は98年に13・7%の最高比率をつけて以降、なぜか横ばいとなっている。今は11%程度なので、むしろ低下しているのだ。これはいったどういうことなのだろうか? 原発は建設費以外にも、交付金や行政費や研究開発費などに莫大な資金が投じられている。にも関わらず、一次エネルギー比で伸び悩んでいるのだ。

率直に言えば、原子力は十数年も前に限界を迎えていたのだ。つまり、石油ショック直前に颯爽とデビューした二人のルーキーのうち、片方だけが大物選手へと成長し、もう片方はとっくに挫折していたのである。

主因は今述べた「電力化率の壁」だ。しかも、原発の場合、さらに「電源性質の壁」までが加わる。常に一定の放熱を続ける原子炉には、エネルギーの供給安定性はあるが、自在性がない。それゆえ電力需要のベースロードしか担えない。これはいわば「技術的な限界」といえる。厳密にいうと、巨大な蓄電能力が整備されているか、又は電気をいくらでも捨ててよいなら、ミドルやピークも担当させられる。後者は論外として、揚水発電を整備したり、需要端に蓄電池や夜間蓄熱設備の導入を進めることで、ある程度、この「電源性質の壁」を乗り越えることができる。そのために電力会社は夜間電力を安くしたり、NAS電池の開発・普及に努めたりしてきた。だが、こういった設備投資は高価な手法であるため、どこかの時点で必ず「経済的な限界」が立ち塞がるものである。

そして今訪れつつあるのが、核燃料サイクル計画の推進や今後の廃炉ラッシュに伴う莫大な経費、高レベル放射性廃棄物問題、そして福一原発事故に伴う賠償や除染費用などの問題である。これらは原発自身のコストを急速に悪化させているだけでなく、環境問題なども併発している。しかも、過酷事故の後では、原発のシェア拡大という選択肢は政治的にもまったくありえない非現実的なストーリーだ。新規建設も難しいことから、自然に「自然減」に入っていく可能性が高い。原発はほとんど政治的な生命をも絶たれてしまった。これは「社会的な限界」が訪れたということかもしれない。

なぜ原子力では石油の替わりが務まらないのか?

このように技術的・経済的・社会的限界を迎えつつある原子力では、脱石油の際に生じるエネルギーの空白を生めることはとうていできない。むしろ、原発が縮小を余儀なくされる可能性が高いので、原子力自身が空白化と穴埋めの対象ですらある。つまり、かつてのルーキーは、結局、主力選手になれず、引退することになりそうなのである。

だいたい、今でさえ、原子力では石油の代わりが務まらない。今言ったように、原発は1兆kWhの電力需要という「四分の一パート」の、そのまた特定部分しか担えない。対して、石油は基本的に残る3兆kWhの「四分の三パート」に属している。両者の接点はわずかな石油火力の部分だ。だが、「電源性質の壁」から、原発は、現在ピーク対応を担っている石油火力の代替が難しい。かつての原発が真価を発揮できたのは、石油火力の代わりにベースロードを担ったからだった。このように、両者は今、ほとんど平行関係にある。

実は、原子力が技術的・経済的な限界を突破し、石油の代替を果たし、日本のエネルギーの主役へと躍り出るための方法がないわけではない。それが化石燃料を使用する「四分の三パート」の極端な電力化であり、かつ原発の大増設という選択肢である。お気づきの通り、この電力化率の上昇策は、自然エネルギー電力のシェア拡大策の時と同じだ。

要は、日本のエネルギー消費が電力ばかりになってしまえばよいのだ。自動車を内燃車からEVへ換える。石油・ガスヒーターを止めて電気式に変える。ガスコンロをIHクッキングに換える。ボイラーを廃止して、電気で建物の暖房や給湯を行う。製造業で要する動力や熱源を石油から電力に替える…等など。こうして、「四分の三パート」の脱化石エネルギー化を進めていく。換言するなら、その消費量の大半が「四分の一パート」の電力枠へと殺到していくので、国全体の電力化率がどんどん上昇し、それが四分の二、四分の三へとシェア拡大していくわけだ(*よって、本気で地球温暖化対策などの社会の脱化石エネルギー策を進めた場合、いくら省エネに努力しても、電力需要が今よりも下がることなどありえないのである)。

このような策は、技術的には可能である。化石燃料の高騰で経済的にもほとんど可能になりつつある。3・11前の電力会社が、なぜあれほどオール電化の推進とEVの普及に熱心だったかを思い起こす必要がある。単に電力の売上を伸ばしたかっただけではない。原発がぶち当たっていた限界を誰よりも自覚していたがゆえに、国全体の電力化率を急上昇させていくことに打開策を求めていたのだ。これはこれで一つの方法かもしれないが、福一事故によって完全に芽が潰えたといえよう。まさに東電の自業自得である。

かくして、原子力が石油の代替を果たせる可能性は少なくなった。それどころか、当の原子力が今や脱却の対象ですらある。つまり、現在は「石油」と「原子力」が同時に問題化するという“エネルギー非常事態”に陥っている緊急事態なのである。

今後、原子力が復権するためには、今の軽水炉タイプとは違った、まったく新しいクリーンで持続可能なそれを開発し、事故の際のハイリスクや放射性廃棄物の問題などを根本から解決するほかない。自然エネルギーと化石エネルギーが直接・間接的に元は原子力から生じているという真理をよく咀嚼するならば、自然エネルギーと原子力が本来は矛盾せず、かつ科学の進歩に伴って人類が原子力からエネルギーを取り出す方向へと向かうのが必然であることが分かるはずだ。問題はあくまでその「方法」であり「技術」である。今のような劣った、危険なやり方に固執する必要はどこにもないし、それを身をもって知った日本人だからこそ、原子力の利用法を再発明してのけられるのだと、私は信じている。

石炭は汎用性の点で半欠格である

このように、石油は脱却の対象、原子力は現実的に縮小の対象、大型水力はもう限界、水力以外の自然エネルギーは電力の1%を、全エネルギー消費の400分の1を担うにすぎない実力…というのが偽らざる現実だ。とすると、残るは天然ガスと石炭しかない。

だが、石炭が石油の代替をするのは難しい。石油は消費のあらゆる部門で使われる一種の万能燃料だ。対して、石炭は使い勝手が悪い。今では発電燃料と製鉄の原料炭としての用途以外、ほとんど使われていない。製鉄業以外の産業界では、自家発電の燃料や熱源として少し使われる程度だ。だいたい、人類は利便性を求めて石炭から石油へ移行したのだ(=流体革命)。石炭が石油の代わりを務めるには、複雑な液化措置が不可欠だろう。

それに対して、この「汎用性の壁」をほとんどクリアしているのが天然ガスである。エネルギー源として、石炭や原子力よりもはるかに守備範囲が広い。天然ガスは今現在、電力の約3割を支え、原発の全盛期とすでに並んでいる。その上、天然ガスは、家庭・業務・産業部門に跨って燃料として用いられている。

われわれに一番身近な例を挙げると、調理や給湯に利用する都市ガスがある。灯油ヒーターはガスヒーターに替えられる。業務部門では、重油と並んでボイラー燃料になる。しかも、ガス式の冷温水発生機は同じ一台で夏と冬の両方のビル空調に対応できる。ガス燃焼で冷房が可能なのは、冷媒の気化熱を利用するからだ。産業部門では、重油などの石油系燃料が加熱・動力・自家発電などに用いられているが、この部分でも天然ガスでの代替が可能である。

天然ガスは、石油の独壇場ともいえる運輸部門のエネルギーさえ担うことができる。天然ガス車、天然ガス船舶、天然ガスジェット機はすでに実在し、稼動している。ただし、性能は石油使用に比べてやや劣る。よって、これは本当に代用であって、進歩を伴った妥当な代替策とはいえない。

このような汎用性は、天然ガスの有する「6つのメリット」のうちの一つなので、運輸部門での妥当な代替方法も含めて、詳しい内容は稿を改めたい。ともあれ、天然ガスは石油と並んで一種の万能性を有するため、その利用拡大によって石油依存率を徐々に引き下げていくことが技術的にも経済的にも十分に可能である。現実に一次エネルギー比を順調に拡大してきた実績もある。よって、脱石油にあたっては、あらゆるエネルギー源の中で天然ガスの果たす役割がもっとも大きいと言わざるをえない。

以上、現状を仔細に検討すると、脱石油に際しての現実的な対策が浮かび上がってくる。まずは天然ガスと石炭という“ベテラン”の出番を増やすことが肝要だ。ただし、石炭の出番は限られているので、主力はあくまで天然ガスとなる。太陽光・風力・地熱などの“ルーキー”はまだまだ頼りないが、今から着実に将来の大物として育てていく…。

と、あまりにもオーソドックスで意外性に欠けるが、結局、これがもっとも現実的な選択ではないか。いずれにせよ、石油に代わる次の時代のエネルギーの主役が天然ガスであることだけは、はっきりしている。自然エネルギーはどう考えても次の次だろう。

2012年01月31日「アゴラ」掲載

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