水素エネルギー社会は夢で終わる(その2)――「政治的なエネルギー」か?

エネルギー問題
出典 大阪ガス株式会社






水素の大量生産・保存・流通のいずれにも難がある

水素エネルギー社会はある重大な問題を抱えている。前回の記事では、燃料電池車のエネルギー効率の悪さ以外にも、その本格的普及を支えるためには専用インフラの新規整備が不可避であるという意味のことを述べた。実は、資金的な問題以前に、そもそも全国的な水素の供給インフラを本当に作れるのかどうかさえ、未だよく分からないのである。

たとえば、自動車需要をはじめとする大規模なニーズに応えるためには、同じく大規模な生産が不可欠だが、その方法が未だ不明だ。エネルギーの利用効率からいって、水の電気分解に問題があることは言うまでもない。「そのために使う電力があるなら、最初から自動車を走らせるエネルギーとして使えばいいではないか」という論理が成立するからだ。だとしたら、妥当な水素の生産方法といえば「副産物利用」しかなくなる。

実は、官僚や企業家などの現実的な水素エネルギー論者が一番あてにしている供給源が、製鉄会社のコークス炉と、将来的な石炭ガス化施設である。つまり、石炭なのだ。周知の通り、石炭は他の資源に比べれば長持ちするものの、しょせんは化石燃料だ。炭化水素からの改質によって取り出す水素は、持続不可能エネルギーと言わざるをえない(*R水素に関しては次回詳述)。対して、電力の場合は、発電源を化石エネルギーから徐々に自然エネルギーに切り替えていくことによって、持続可能化できる。

もっとも、枯渇しない方法がないわけでもない。今言った副生水素としては、ゴミ処理の過程から排出されるものがある。また、高温ガス炉を使った水の熱化学分解法や、光触媒を使った水分解法もすでに実用化されている。原子炉を使う方法は、将来的な「水素還元製鉄=原子力製鉄」などに有望だが、福一事故以後は原発自体が「要議論」の対象だ。今のところ、これ以外に水素を安定的かつ経済的に大量生産する方法は見当たらない。

しかも、それができたとしても、今度は貯蔵と輸送の壁にぶち当たる。水素は最小原子のために容器をすり抜けたり、金属の中に入り込んで脆化させたりする問題を引き起こす。そのためシーリング(封じ込め)や長期保管が難しい。引火しやすく、爆発性があることは、福一原発の建屋を吹き飛ばした事故でもご覧の通りである。よって、精密な加工や慎重な取り扱いがどうしても不可欠となり、必然的にコストとなって跳ね返ってくる。

今日、貯蔵方法としては、圧縮水素か、極低温の液体水素という形が一般的だ。前者は保存できる量が比較的少なく、いったん圧力を規格統一したらインフラ面からも滅多なことで変えられないという自縄自縛になる。後者は走行距離の代償として、ロケット燃料と同じ取扱いになる。これらを流通させるためには、高価な水素運搬車や水素ステーションなどの特殊インフラが必要になる。また、自己体積の千から数万倍の水素を保存できる水素吸蔵合金も実用化されつつあるが、難点は金属なので重量があり、水素の補給時間がかかることだ。これは定置用の保存法としてならともかく、移動体用としては致命的である。ましてや、自動車が「自身を含めてある重さのモノを運ぶ仕事」をする存在である以上、水素の大量輸送の手段としては非効率で不向きだ。

ごく最近では、イリジウムを使った触媒により、水素とCO2から比較的簡単に「ギ酸」という液体を作る方法が開発された。爆発性がなく、安全に貯蔵・運搬できるとされる。目的地ではその逆反応で水素を取り出せばよい(朝日新聞 2012 3 19より)。だが、この方法の致命的な欠点は、「水素→ギ酸→水素」という工程を挟むため、エネルギー収支をひどく悪化させることだ。

このように、水素の生産・貯蔵・運搬に関しては、いずれの方法も問題を有している。

誰がナンセンスを推し進めているのか?

では、仮に上のような水素インフラの構築が可能になったとして、改めて「燃料電池車と水素インフラ」と「EVと電力インフラ」を比較してみると、総合的に見てどちらが優れた選択だろうか。答えは、まったく考えるまでもないのだが、一応記しておく。

まず、燃料電池車のメカニズム自体がEVに比べて非常に複雑であり、その分、高価だ。車体価格がいつ一般車並みに下がるのか、誰にも分からない。また、燃料電池車を街に走らせるためには、新インフラ構築のための莫大な投資が不可欠になる。その費用は最終的に燃料費や税に転嫁されよう。そのくせ、燃料輸送の手間や、供給がステーションに限られる点は、以前の内燃車から少しも進歩していない。

対して、EVの場合、既存の電力インフラをそのまま流用できる。日本中どこでも電線が張り巡らされているので、燃料輸送の手間もいらないし、プラグさえあれば供給もステーションに限らず、自宅、コンビニ、勤務先、道路脇、駐車場でもいい。実質「どこでも充電」が可能だ。この点では、以前の内燃自動車システムからの明確な進歩だろう。むろん、急速充電器を増やすには予算がいるが、要は大きめのプラグに過ぎず、巨額の整備費というのは杞憂だ。太陽電池と無線充電の進歩次第では、将来的にプラグすら不要になる。

EVで常に問題にされるのは蓄電池の性能とコスト、それに拠る走行距離であるが、これはもう心配しなくてよい。今まで蓄電池開発者の間では、エネルギー密度として「リッター1kWh超え」が一つの目標だったが、数ヶ月ほど前、豊田中研の新型二次電池があっさり2kWh超えをやってしまった。セダンタイプのEVは1kWhの電力で6~8キロほど実走行できる。1ℓサイズのペットボトルを思い起こしてほしい。あれで15キロ前後も走行できてしまうのだ。蓄電池スペース次第だが、これで1回の充電で走行距離が千キロ以上に伸びる。今は充電サイクルなどの課題も多いが、早晩、市場投入されるだろう。

このように、今や「燃料電池車と水素インフラ」が劣った、愚かな選択であることは誰の目にも明らかだ。問題は、政府・経済産業省内に、なぜ「2~30年度の水素エネルギー社会の本格的到来」を謳い、燃料電池車を広めようとしている勢力がいるのか、という点である。彼らは今後、メーカーに燃料電池車を市場投入させ、予算を投じて水素ステーションを各地に整備しようと目論んでいる。もちろん、市場競争でEVに勝てるはずがなく、それらは早晩、ゴミ処理場に向かうことが確定している。なのに、どうしてこんな馬鹿げた、不合理な計画が進んでいるのだろうか? もしかして、「一度決めたら、絶対にプロジェクトの過ちを認めず、後戻りしない」という霞ヶ関の無謬主義のためか。

私も真相を知らないので、教えてもらいたい立場である。ただ、噂・推測の類いとしては耳にしている。バックにいるのは水素のサプライヤーらしい。EVと燃料電池車の関係は、そのまま電力会社と、燃料屋・鉄屋の関係に当てはまるともいう。燃料屋とは石油・ガス業界のことで、鉄屋とは石炭を大量に扱う鉄鋼業界のことだ。水素の生産能力をもつ彼らとしては、当然、その捌け口がほしいに違いない。どちらの業界もOBが牛耳ったり天下ったりしているので、経産省の官僚は、EVと燃料電池車の両方に「いい顔」をしなければならない立場にあるらしい。

以上は、あくまで噂である。しかし、本当だとしたら、許されることではない。これは要するに「省内政治」である。その産物として、社会に損失を強いることが予想される不合理なプロジェクトが強行されるとしたら、これは国家への背信である。最終的にツケを回されるのは、われわれ納税者だ。どんな内情があるにせよ、官僚たる者が欠陥システムに固執して国益を損なうようなことがあってはならないと思う。

水素エネルギー“地域”社会ならば成立する

しかしながら、製鉄所やゴミ処理場などから、副生水素が発生する(又はさせられる)のも事実である。それを化学原料としてだけでなく、自動車以外のエネルギー源としても有効活用しない手はない。計画の廃止ではなく“変更”ならば、名分も立ち易かろう。

一つは、単純に燃料電池などを使って電力に変えることだ。製鉄会社は電力会社にそれを卸売りしてもよいし、あるいは自由化の暁には、自ら発電会社になればいい。

もう一つは、地産地消用として活用することだ。たとえば、発生源から地元の家庭・公共施設・企業に対して、専用管を使って水素を送る。需要サイドは、自前の燃料電池でそれを電力・熱源に変換し、利用すればいい。このケースなら、地元の運輸燃料として使っても構わない。おそらく、一般車両向けに設置した水素ステーションは、最終的に閑古鳥が鳴いて潰れてしまうだろう。しかし、地元のバスや機関車などの「路線固定もの」ならば、水素ステーションもうまく機能し続け、最終的に投資を回収できるに違いない。日本が培ってきたFCVや水素利用の技術は、この部分に生かしてほしいと思う。

つまり、全国規模のエネルギー源にしようなどと構想せずに、発生企業と地元自治体がうまく協力し合って、最初から地域的・部分的な利用に留めておけばいい。水素は決してメインエネルギーにはなりえないが、このようなコンセプトなら、うまくいくのではないだろうか。

2012年03月28日「アゴラ」掲載

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