電力の個産個消時代がやって来る! コンピュータと同じく電源もパーソナルな時代へ!

エネルギー問題




先日、松本徹三先生のほうから「電力のグランドデザイン」についての話がありましたが、将来設計にあたり、プライベート電源のイノベーションによって、今の重厚長大型の電力システムそのものが衰退していく可能性も考慮に入れたほうがよいのではないかと思い、以下の稿を記したいと思います。



巨大な送電・変電・配電設備

平成22年版の「電気事業便覧」によると、同年3月末における電力10社の固定資産は36兆1164億円であり、そのうちの7割弱に当たる24兆7737億円が電気事業固定資産である。その内訳が以下の表だ(*億円未満四捨五入)。

以上はあくまで「資産額」であるが、送電施設等のほうが発電所の二倍も高い点が興味深い。われわれ一般市民からすると、送電以下は「裏方」のように思えるが、実際にはこちらのほうが発電部門よりも整備費がかかっているのである。

ところで、電車で田舎を旅すると、必ずといっていいほど窓から目に入るのが鉄塔と送電線だ。いったい全国にどれくらい存在しているのだろうか。

同じく「電気事業便覧」によると、三本を1回線とする送電線(*3相交流の電気を三本の電線で送るため)の長さは、架空・地中を足して約18・3万kmである。その支持物は43万1056基であり、内いわゆる鉄塔が23万9511基を占めている。一方、変電所は6676ヵ所だ。送電ロスを減らすため、遠くにある発電所の電気は昇圧し、高電圧化して消費地に送り届け、再び降圧するプロセスを踏んでいる。そうした電気がユーザーに配電されるが、その設備として、電線が約402万km、電柱が約2124万本、電力量計が7858万個もある。

このように、日本列島には地球百周分を超える電線がクモの巣のように張り巡らされている。すべては、全国津々浦々の需要家が、使いたい時に電気を使えるようにするために整えられたものだ。われわれは、蛍光灯の紐を引っ張ると明りが灯るのが当たり前だと無意識のうちに思い込んでいるが、それはかくも巨大なシステムによって支えられている。

一般に、「系統電力」とか「商用電源」と称されるものは、この巨大な送電以下の設備コストを絶対的に背負わねばならない。これが、今回の記事のポイントとなる。

これから凄まじい追加投資が待っている

さて、現状の「空気」からすると、電力自由化はほぼ規定路線であると思われる。送電から配電まではあまり別ける意味がないという意見が多いが、発電部門は分離して競争させるべきだという意見に関しては、多くの識者が賛同している。政治家にもこのようなことを口にする人が少なくない。よって、「発送電分離」は、近い将来、実施されるが、送電以下は「公共財」という位置づけて一種の公営企業になる可能性が高いと思う。

実は、私は個人的にこれらの改革に反対している。自由化というが、そもそも電気には「製品の質」の競争がない。あるのは価格のみである。そうすると、最終的に内部犠牲を強いた発電会社ほど勝つのではないか。いや、そういうレベルの話よりも、エネルギーの問題は、何よりも国家の安全保障という「ハイポリティクス」の観点から考えるべきだと指摘したい。消費者視点の価値観だけを追求すればよいわけではないと思う。安定供給や価格の安さと並んで、同じようにエネルギー自給率やエネルギー安保の向上、環境問題等の解決も重要である。われわれは今日、「いかに無理なく脱化石燃料を進めて、経済的に自然エネルギーを普及させていくか」という課題も抱えている。これは長期的な視点に立って、はじめて取り組める。だが、完全自由化の暁後には、発電会社は価格競争に血筋を上げるだろう。では、ハイポリティクス水準のエネ問題に誰が責任を負うのだろうか。そう考えると、電力会社の内部改革を進めつつも、垂直統合そのものは維持し、長期的視点に立って自然エネルギーを計画的に開発していくのも一つの選択肢ではないだろうか。

もっとも、この際、電力自由化問題に対する私の考えなど、どうでもよい。どうせ「空気」として決まっていることなので、抵抗しても無駄であることも知っている。重要なことは、現実問題として電力改革また電力システムがどうなっていくのか、という点である。

まず、今7月施行のFITによってメガソーラーやウインドファームが急増することは確実だ。一方、原発問題の解決はずるずると政治的に引き伸ばされ、不良債権化が進行するかもしれない。また、大規模な自然エネルギー発電力の受け入れのため、送電線の延長や、基幹線のさらなる高電圧化も必要とされる。供給の自在性能が落ちるため、需給の最適化や節電のためにもスマートグリッド化すべきだという意見も多い。太陽光などの出力変動を抑えるために、系統安定化対策コストも強いられる。大半は変電所内への蓄電池設置だが、経済産業省の推計によると、NAS電池計算でだいたい1千万kWごとに1兆円くらい必要らしい。一方、配電部分ではスマートメーターの普及が進められていく。

以上のように、これからの日本では、発電・送電・変電・配電の、すべてに巨額の追加投資が実施されて(強いられて?)いくのである。とくに自然エネルギー業者側の、ああしろこうしろという要求がどんどん通っていくだろう。

はっきり言って、蓄電池込みで経済性さえ獲得すれば、太陽光や風力も優れた電源だ。ポテンシャルが大きい分、メイン電源化の道すら開ける。だからこそ今は、地熱やバイオマスの開発、火力の効率向上などに黙々と取り組み、メガソーラーやウインドファームに関しては、技術開発に投資しつつ、その「機」を待てばいい。それが戦略というものではないだろうか。ところが、ただ一つ「待つ」ということができないばかりに、結果として、下流に位置する送変配電設備に対して、本来不要な投資まで必要になってしまう。

すべては、「アブノーマルな電源のままでも構わないから、今はドイツに学んで、FITによる人為市場で“爆発的に普及”させることを優先するべきだ」などと信じ、それを実行しようとしている馬鹿な人たちのせいだ、とここに明記しておく。

系統電力を見限った消費者が「電源自立」を模索し始めた

では、これだけの巨額投資をして、いったい何が変わるのだろうか? 私の予測では、消費者の利益という視点でいえば、何も変わらないか、むしろ状況は悪化する。

FITの買取価格が消費者に回されることもあるが、おそらく今の地域独占体制を崩しても、電気料金は値上がりしていくと思われる。仮に発電部門を分離し、電力自由化の名の下に発電会社を競争させたとしよう。だが、彼らが人件費や環境対策費をいかに削ろうが、送電以下の巨大な固定費は背負わねばならないし、その部分は今後増強されていく。現状、PPSの電力が安いのは、既存モデルに寄生した上、託送料が今のレベルに留まっているからに他ならない。よって、自由化すると当初こそ安くなるが、その増強に準じて値上がりし始め、結局は前と違わないか、又は高くなる可能性のほうが高い。

しかも、使い勝手は以前とほとんど変わらないか、かえって不便になるかもしれない。むろん、使用電力の「見える化」くらいはできる。発電会社や料金プランの選択ができれば、ショッピング気分くらいは味わえよう。だが、その代償として、メーター様から節電を要求されたり、場合によっては勝手に需要を統制されたりする。確かに、少しでもピークカットに繋がれば、社会全体の利益にはなる。だが、需要家としては、以前のシステムこそが実は最高のサービスを達成していたのだと気づかされるのではないか。

このように、巨額投資したのに、電気料金は上がり、利便性も向上しない。そのくせ、毎年「節電してくれ」という類いの要請が現れる。消費者は、安定供給に対して不安を覚え、また電気料金に対して強い不満を覚えるだろう。東日本大震災や原発事故で、人々の防災や自衛の意識が高まったことも影響し、「もう政府や電力会社に頼ってられない、自分たちの手でなんとかする他ない」というマインドが益々高揚していくものと思われる。

平たくいえば、既存システムを見限り、電源自立しようというニーズが需要家の間で生じる。それに対して、市場経済がちゃんと応えるだろう。危機的状況に対する解決策として、市場が生み出し、洗練させていくものこそ「電力の個産個消技術」に他ならない。

実は、その胎動はすでに企業の間で始まっている。とくに製造業系の企業は、「安くて豊富な電力の安定供給」が命綱だ。従業員を食わせなければならない彼らとしては、無能な政府と心中するわけにはいかない。だから、今や一斉にガス発電の導入に動きつつある。

実は、ここが興味深い。あくまで「ガス」なのである。なぜなら、石炭や重油では、よほど扱いなれた企業でない限り、常用発電が難しい。その点、マイクロガスタービンはスイッチ一つで誰でも操作できる。クリーンで、需要規模に応じたタービンが揃っており、ガス管と接続している限り燃料供給が途絶える心配もない。しかも、その排熱を熱源として再利用することができる。自家用コージェネが極めて容易なのだ。

また、一戸建ての電源自立もついに始まった。一般家庭の年間電力使用量はせいぜい4千kWh前後なので、住宅用太陽光発電システムと蓄電池で十分に自立可能である。家庭用の電力料金は最高値の設定なので、いち早くグリッドパリティ(系統電力との等価)に到達する需要家があるとすれば、それは一戸建てだろう。自立に不安であれば、小型風車も足せばいい。今では0・5kWクラスで5万円前後まで登場した。というか、風況のよい土地では、逆に風車メインで自立しようという動きも見られる。併用はリスク分散にもなる。

おそらく、自立した住宅は、エネルギー経費を抑えるためにオール電化を選択する傾向が強まるだろうが、心配であればガスとの接続は維持し、格安のガス発電機も備えておけばよい(やはり0・5kWクラスで7万円台がある)。あるいは、これから安くなる一方の家庭用燃料電池を中心としたシステムにする方法もある。これなら完璧に自立可能だ。

一方、需要規模として、製造業と家庭のほぼ中間に位置するのが業務部門である。オフィスビルに関しては、最近「ゼロエネルギービル」という概念が盛んに提唱され、太陽光や地中熱の積極導入が謳われている。こう言うと驚かれる人もいるだろうが、実は、中程度のオフィスビルや業務施設なら、数ヶ月で電源自立することも不可能ではない。おそらく、この部門の自立に際しては、太陽光とガスの利用が相半ばする形になるだろう。うまく併用するシステム等については、次回にでも詳しく説明したい。

「商用電源VSプライベート電源」戦争の行く末は?

このように、需要家の間で、系統電力を見放し、太陽光・風力・ガスなどで電源自立を始める動きが現れ始めた。すべては電力の個産個消技術の進歩により、自身への安定供給が可能になったからだ。しかも、それにより、巨大な発電・送電・変電・配電設備から、物理的にもコスト的にもフリーでいられる。

基本的に、製造業のように年間電力需要が大きいほど、ガスへの依存度も高くなるようだが、太陽光が安くなれば社有地やレンタル地での「自家用メガソーラー」もありえよう。中には「ガスの需要が増えて大変だ」と思う人もいるかもしれないが、実際は「個」が電力会社の大型火力が燃やす分を横取りしている構図のため、自家発電の総合効率が4割以上であれば、かえってLNGの輸入費は抑えられる。

さて、問題は、この新たな現実、又は電源自立という新たな社会現象によって、何が起こるのか、最終的にどこに行き着くのか、という点である。私の予測を以下に述べよう。

今後、電力会社は、電源自立による顧客の減少に歯止めがかからなくなる。人口減少もそれに追い討ちをかける。日本の総人口は、2050年で1億人程度に減るという。電力会社にとって、未だ自由化されていない最小電圧帯は「ドル箱」である。その儲けどころを失っていく痛手は、ことのほか大きいだろう。

しかも、その「減り方」が歪だ。ある地域の需要が丸ごとごっそりと消えるわけでなく、点々と消えていく形になる。よって、顧客は急減するのに、送電・変電・配電インフラは従来とほぼ同じレベルを維持することを余儀なくされる。これは売上減にも関わらず販売体制は従来のままを強いられるようなものだ。いや、それどころか、今言ったように、自然エネルギー発電の急増により、インフラを強化していくことすら求められる。

つまり、設備コストは膨らむのに、逆に売上げはどんどん減少していく。仕方なく、電気料金の値上げに追い込まれる。それがますます需要家の離脱を招き、さらに収益が悪化して…という悪循環に陥る。やがて、ある時点で耐え切れなくなり、需要家密度の薄い地域を丸ごと放棄せざるをえなくなる。「○年度をもってこの地域から撤退します」とアナウンスすることを余儀なくされるわけだ。その地域はむろん、丸ごと電力の個産個消地域へと変貌する。こうして、現状の電力幕藩体制は「市場経済」によって終焉していく。

繰り返すが、商用電源はこれから、人口減少と需要家離脱のダブルパンチ、いや、インフラ投資も含めたトリプルパンチによって、年々、経済性が悪化していく。対して、プライベート電源は、逆に年々、性能やコストを改善させていくだろう。今がちょうど両者の分岐点なのかもしれない。両者のコスト差は、これから開く一方となる。

つまり、電力会社の真の競争相手は、自由化によって誕生する新興電力会社ではなく、まったく次元の異なる個産個消テクノロジーなのである。そして次元が異なるゆえに、勝負は最初からついている。ただし、大都市の一部は電源自立の波から取り残され、「旧電力」の最後の砦として残るかもしれない。バカ高い電力を買わされる「エネルギー弱者」と呼ばれる人々が現れるかもしれない。その救済策は、またの機会に述べたい。

コンピュータと同じく電源もパーソナルな時代へ

なんとも皮肉である。日本の電気料金が高いのは、電力会社が地域独占・総括原価方式の上に胡坐をかいているからだ、と言われている。よって、そこに競争原理を持ち込めば、市場の力によって最適化されていくのではないか、というのが電力自由化の理論だ。ところが、脱原発・自然エネルギーへの希求という「空気」によって、FITを先行して実施することになってしまった。どうやらこれが駄目押しになりそうだ。巨大システムによって自然エネルギーを無理やり普及させようとする「信念ある改革者たち」が、そのシステムの滅亡を加速させる歴史的役割を担うのである。もはや現状に耐え切れないと感じた市場は、電力の個産個消テクノロジーという対抗策を洗練させ、需要家のほうはそのツールを使って我先に離脱していくだろう。これぞ本当の「経済合理性」である。

結果として現れる新世界は、よく言われる「スマートコミュニティ」「マイクログリッド」「電力の地産地消」などとは明らかに異なる。あくまで「個の電源自立」であり、その集合体である。太陽光や風力は、むしろ個産個消用として普及が加速する。おそらく、電力システムからいったん自立した個は、もはや戻ってくることはない。スマートグリッドの技術などは、むしろ大企業・大学・巨大マンションなどの「大規模プライベート」の、個内最適化システムとして生かされていくのではないか。大半の地域には、電柱も電線もない。郊外には鉄塔もない。それは「電力会社そのものがない未来」なのだ。

われわれは無意識のうちに「どこかに大型の発電機を据えつけねばならない」と思い込んでいる。今、国を挙げて行われているエネルギー問題についての議論がその典型だ。それはちょうど、60年代の人々が「コンピュータとは大型の、業務用のものである」という常識に基づいて、将来のコンピュータ社会を論じ合っていたのと似ている。

だが、1974年末、世界初のパーソナル・コンピュータ「アルテア8800」が登場したことによって、旧来のコンピュータ観が一新した。そもそも「パソコン」という名称自体に、それが個人の所有物と化したのは革新的だという驚きが込められている。以来、コンピュータは個人のものになった。同じことが電力でも起きるのではないだろうか。しかも、世界に先駆けて、この日本で。技術革新によってパーソナルな電力システムがいったん常識となると、数十年もしないうちにそれは日本を、そして世界を席巻するだろう。それはエジソン以来の、150年ぶりの大変革となる。

2012年04月26日「アゴラ」掲載

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