なぜ日本はEVの普及を急ぐべきなのか(その10)――太陽と風で自動車が走る日(太陽編)

EV関連
Takaaki Yamada






石油自動車を走らせるのに必要な膨大なインフラ

日本は原油の大半を中東から輸入している。砂漠で掘削された原油は、パイプラインで港まで輸送され、そこからスーパータンカーで3週間かけて日本へと運ばれる。国内の主要な港には石油精製施設があり、そこで原油は加熱され、ガソリンや軽油、重油やナフサなどの各種石油製品へと転換される。生産された自動車用燃料は、鉄道やタンクローリーなどを使って、消費者に小売をするガソリンスタンドへと運ばれる。

自動車ユーザーはここで液体燃料を手に入れる。給油された燃料は、メカトロニクスの精緻といってよいエンジンで燃焼され、動力へと変換される。こうして、燃料の持つエネルギーの約3割が車軸へと伝達されることで、自動車は実際に走行している。

妙な問いかけだが、こんな複雑で面倒なプロセスを踏んでまで、いったい自動車は何をしているのだろうか。自動車の役割とは何なのか。言うまでもなく、「ヒトやモノを輸送すること」である。中には運転それ自体に喜びを見出している人もいるが、それとてこの定義から逸脱するものではない。その目的を果たすための手段として、「内燃車+石油流通網」という自動車交通システムが発達してきた。今日、これが日本の運輸部門の核(*9割を占める)である。飛行機や船舶も含めた部門全体として98%のエネルギーを石油に依存している現状を思えば、現代が“石油文明”と呼ばれるのも頷ける。

以上の、あえて自明のことを再確認した訳は、以下の問いかけのためだ。

「果たして、今と同じ仕事を、より少ないエネルギーや資源で成し遂げることのできる、まったく異なったシステムはないものだろうか?」

一般には、技術の進歩によってそれが可能になることを「イノベーション」とか「文明の進歩」と呼んでいる。

実は、それを可能にするものこそ、電気自動車、ストリート充電、そしてストリート発電の、三つの組み合わせから成るシステムではないか、と私は信じている。

もちろん、現実には徐々に移行する形になろうが、この方法に拠れば最終的に今とは比べ物にならないほどシンプルな手段で、現在と同じ物流を維持できるはずだ。しかも、システムとしては新しくとも、要素技術の大半は既存であり、ゆえにコストの概算も可能だ。つまり、何兆円をかけて何をどうすればよいか、それは経済的に実現可能か否かということを、現時点でほぼ明らかにすることができる。

仮にこれが実現すれば、最終的には走行に要するエネルギーを持続可能な形で自給自足できる。つまり、古い自動車交通システムが本質的に持続・自給不可能という矛盾を抱えているとすれば、新しいシステムは「その問題の解決策」に当たるというわけだ。今の自動車交通システムを根底からひっくり返すということは、技術史や文明史的にはおよそ百年ぶりの大改革となる。しかも、日本が世界初を達成できる可能性がある。

今回はこのストリート発電に焦点を当ててみたい。

ボディのフル太陽電池化で自動車が無燃料で走る?

その前に、EVを動かす電力は、できるだけEV自身から調達できないだろうか。もし実現すれば、これこそもっとも無駄の少ないシステムとなる。

2004年に火星に着陸したNASAの無人探査機「オポチュニティ」は、10年目に突入した現在でも活動を続けている。荒涼たる無人の惑星で、どこからエネルギーを得ているのだろうか。火星の弱々しい日光からである。背中に羽のように広げた太陽電池でそれを捕らえることで、何もない惑星上にあってもミッションをこなしている。

まさに究極の個産個消である。これを見習って、まずは自載の太陽電池で自動車を走らせてみることを考えてみたい。

EVやPHVはデフォルトで蓄電池搭載のため、気まぐれ発電をする太陽電池とは非常に相性がよい。すでにプリウスのオプションとしてルーフに設置するものがある。一般的な乗用車であれば、ルーフとボンネットなどから約3平米の水平面積がとれる。ここに変換効率20%以上の高効率電池を搭載すれば、約0・6kWの太陽光発電機になる。

2017年発売のトヨタPHVのルーフ

一方、その他のボディには、発電効率は劣るものの、薄膜系の太陽電池が妥当だ。原料をガス化して噴きつける技術によって、曲面に対してもシリコン系や有機系の塗装が可能だ。これで窓ガラス以外はすべて太陽電池化する。実はこれはすでに試作車としてある。

ただ、もっとも徹底して、窓ガラスにも、ガラス併用タイプの太陽電池をはめ込んではどうだろうか。ただし、視界の問題もあるので、前面部分は避ける。これによりフロントガラスと底面以外の、ほぼフルボディが太陽電池と化す。表面積を考えると、だいたい乗用車タイプで「1・5kW」前後の発電容量になると思われる。おそらく、入射角にもよるが、普通に晴れた日ならば1kW程度の発電はしてのける可能性がある。

最新のEVは1kWhの電力で10キロを走破できる。つまり、1時間ほど陽を浴びれば、10キロは走れる計算になる。通勤通学に車を用いるユーザーならば、目的地で青空駐車ができれば、帰りの分くらいの電力は得られるかもしれない。

電動トラックはさらに太陽電池と相性がいい。コンテナ部分で広い水平がとれるからだ。しかも、乗用車のように曲面ではないので特殊な加工がいらず、今ある太陽光パネルをそのまま載せられる。ただし、トラックは荷物を積んで走り回るのが仕事なので、エネルギー需要が大きい。自載の太陽電池程度では、走行をわずかに補助できるにすぎない。

しかも、この種の追加装備には常に費用対効果の問題が付きまとう。薄膜型の太陽電池程度なら気にしなくてよいが、高効率太陽電池を装備した場合、現状、運転時間以外はずっと露天駐車して少しでも発電量を稼がないと、ペイしない。つまり、数十万円ものコストを追加してそのようなものを載せる意味がない。よって、今のところは、EVの太陽電池装備は、塗装薄膜型ならば標準化してもよいが、比較的高価な高効率タイプは、あくまで償却できる自信のあるユーザーのためのオプション扱いが妥当になる。

それでも、太陽電池を搭載するEVには、広い用途と可能性がある。たとえば、万一の電池切れの際でも、太陽さえ出ていれば、又出るまで待てば、なんとかなる。「自然回復」という最終救済手段が確保されることで、電欠に対する強迫観念も和らごう。また、ずっと露天駐車していれば、自然と蓄電池が満充電になり、それ以降は余剰化する。この分は自宅や職場での使用や、売電に回してもいい。さらに「移動式のソーラー発電機」なので、アウトドアにおける電源や、停電時・災害時の電源としても使えよう。蓄電池とうまく組み合わせれば、家庭の電気代を大きく削減できる可能性がある。

日本には乗用車が約6千万台、トラックが約1500万台ある。仮に全車がEV化し、太陽電池を装備すれば、発電容量だけなら1億kW以上だ。固定式太陽光パネルのように、年間発電量が出力の1千時間分に達すれば、これは1000億kWh(現在の電力需要の1割)に相当し、全車の走行に必要なエネルギーの半分弱を賄える計算になる。

だが、これはまったく机上の空論であり、現実にはありえない。なぜなら、ユーザーが意識的に露天を心がけようが、高層化した都市部ではそもそも本人の意志に決定権がないからだ。よって、車体をいくら太陽電池化しても、実際には走行に必要なエネルギーの、ほんの一部を自家調達できるに過ぎない。ただし、開けた郊外に自宅と職場を持つ人ならば、かなりの自給割合に持っていける可能性はある…このように結論できる。

ストリート発電とは道路スペースを利用するもの

というわけで、「オポチュニティ」のようなエネルギーの完全自家調達は、(少なくとも今の太陽電池の発電効率では)自動車には無理だ。よって、主な電力の供給先は、あくまで外部に頼るほかない。そこで、この「ストリート発電」の出番というわけである。

つまり、個産個消で駄目なら、地産地消のほうをメインにするわけだ。ここが太陽光発電の素晴らしい長所である。あらゆる発電方式の中で、ほとんど唯一「どこでも発電」が可能だからだ。国土のどこに設置しても、必ず一定割合の発電量が保証される。大事なことは、うまくマネジメントをして「経済性」を確保することである。

ストリート発電のメイン方式が、道路脇に設置する太陽光パネルだ。ちょうどバス停の「ひさし」のような外見になることから、以前から私は「バス停置き」と称している。メリットは公共地の二重利用にあたるので土地代が不要なことと、またほとんどの場合、送電コストも不要なことだ。ひさしの幅はだいたい2mを想定している。

このような形状を選ぶわけは、街の開放感や日照権に気を配っているからだ。いかに発電量が多いとはいえ、仮に商店街のアーケードのように歩道の頭上を全部パネルで覆ってしまえば、閉塞感があり、薄暗く、環境を悪化させる。都市一体型のメガソーラーともいえる“街置き”の場合、あくまで生活環境と調和したものでなければならない。

ただし、道路脇ならどこでもよいわけではなく、とくに街中であれば「東西を走る道路の北側」でなければ有効な日照は得られない。また、都心のようにあまりに高層化が進んだ地域では、その場所であっても冬場は日陰になる場合もあるため、設置に向かない。対して、草原や田んぼの一本道のような、両サイドに何もない道路であれば、どの方角を向いているかに関係なく、道路脇ならば設置することができる。

ストリート発電の経済性は?

では、実際に家庭用標準タイプの3・5kWのパネルを、街中のほぼ10mの歩道区間を使って「バス停置き」したケースを想定してみよう。

現在のメガソーラー基準でいうと、設置費はちょうど100万円前後である。年間の発電量は約3500kWhなので、仮に1kWhあたり20円で売電できると、7万円の年間収入になる。つまり、15年もあれば償却可能だ。今のパネルは25年保証も当たり前なので、以後は純収入に転じる。この1kWh20円という価格設定は、現実の市場を想定したものだ。以前にも述べたが、急速充電器の設置費用は1kWhあたり数円の上乗せで償却可能なので、EVユーザーへの実際の小売価格は23~25円が妥当だろう。

なお、蓄電池付きの急速充電器を用いるか、それとも独立して蓄電池を設置するかという問題があり、コスト等も異なってくるが、この問題は別途取り上げたい。

ちなみに、最新のEVならば、3500kWhの電力により3万5千キロを走ることができる。内燃車がこれだけの距離を走破するためには、最上の低燃費車であっても1千ℓ以上のガソリンが必要だ。つまり、この容量のパネルで発電した電力をEVに供給することによって、年間に「約1千ℓ=1kl」もの燃料消費を削減することができる。これは供給源の置き換えなので、一種の「たとえ」ではなく、現実にその種の即効性がある。

ただし、次のような疑問が提起されよう。「せっかく発電しても、EVの普及が遅々としていれば、市場で電気が捌き切れないではないか」と。ご安心あれ。地元の電力会社にも卸せる仕組みを作っておけばいいのである。予算を投じる「お上事業」であれば、その辺は問答無用だ。といっても、今の太陽光電力の買取価格からすると、1kWh20円は破格の安値なので、むしろ良心的なくらいだ。これによって、ストリート発電所は売り先を二重に確保できる。ただし、私はある程度、充電器整備も進み、EVの姿が目立ってきてから、次の段階としてストリート発電機を設置していくべきだと考えている。

さて、もっと大掛かりなケースを想定したい。同じように、太陽光パネルを1kmの区間にわたってバス停置きすると、建設費はちょうど1億円と、とても分かり易い。

仮に設置区間が10kmの本格的なストリート・メガソーラーを作るとしよう。これは東京の両国橋から江戸川大橋の距離に近い。この間の京葉道路の長さが十数kmなので、交差点等の切断部分を考慮すればちょうど10kmになる。この区間の出力は3500kWだ。年間発電量は350万kWhに達し、1千klもの燃料削減効果を発揮する。

この規模は全国の街または都市レベルを想定したものだ。言うまでもなく、東京よりも、札幌や名古屋、大阪や京都のように、道路が碁盤の目になっている都市のほうが整備しやすい。自治体が積極的・協力的であれば、都市ごとに100kmや200km程度のストリート発電所なら、すぐに建設に取り掛かれるだろう。

要は、1兆円を投じれば、全国で1万km分のストリート発電所が出来上がる。太陽光発電はイニシャルコストが大半で、維持費は非常に小さい。これで年間に原発半基分相当の35億kWhを発電し、100万klの燃料を削減できる。よって、20年間稼動すれば、「今の」石油価格にして、累計で1兆数千億円の石油輸入費を削減する効果がある。

ストリート発電で全自動車のエネルギー需要を賄える?

仮にストリート発電所の建設に年間1兆円の予算を投じれば、十年後には年間で1千万klの削減に繋がる。現在、全自動車による年間の燃料消費量は約9千万klだ。よって、単純に総額90兆円の投資を行えば、自動車エネルギーを自給できる計算になるが、実際にはトラック分や高燃費車も混じっているので、もう少し複雑な計算になる。

はっきりしているのは、決して90兆円も必要ないということだ。第一に、これから自動車の数自体が減っていく。第二に、EVは自宅や職場などでも普通充電する。第三に、政策的な巨大需要の創出による量産効果と大量仕入れによって、パネル価格が下落する。第四に、それにより太陽光パネルを装備した自動車が増える可能性もある。よって、いずれにせよ、もっと少ない金額で足る。それに設置基準を満たす道路が無限にあるわけではないし、私自身も需要のすべてを太陽光発電だけで賄うべきだとは思っていない。

また、「ストリート」といっても、もし実用性があれば、塗装型の太陽電池を歩道面や道路面に直接塗る方法なども検討すればいい。車のボディや建物に塗れるなら、地面だって塗れるはずだ。通行量が比較的少ない道路では、すぐに剥離せず案外長持ちするかもしれない。また、ストリートにこだわらずとも、公園、川原、沿岸など、その他の公有地もいい設置対象になる。線路上のスペースなどは、鉄道用として活用すればいい。

金額や設置場所以上に大事なポイントは、投資が回収できるか、費用対効果はどうか、の二点である。それについては上に述べた通りだ。この二点をクリアする以上、投資額が90兆円だろうが900兆円だろうが、まったく問題ない。

要は、発電所が「生産設備」である以上、電気という「商品」さえ捌くことができれば、投資は必ず回収できるということだ。太陽光パネルを設置した家庭や企業が売電によってそうするのと同じ理屈である。しかも、1kWh20円に売電価格を設定したのも、現状、これならば設備償却もできて、なおかつEVと電力会社双方のメリットを損なうことがないと判断したからだ。EVにしてみれば、依然としてHV車の半分以下のランニングコストにすぎない。また、電力会社もストリート発電所から仕入れた電気にプラス数円し、自社の配電網を通して家庭に転売できる。

このように、今のFITのように消費者にツケを回すものでない以上、このシステムは経済的にも政治的にも機能する。だから、公共事業費を投じて、どんどん増やしていっても構わない。その分は設備稼働中に戻ってくるし、それどころか最終的に利益さえ見込まれる。こういう事業は、本来は一般会計よりも財政投融資などが向いていよう。

しかしながら、「それでは誰もが得をしていることになり、話がうますぎる」という感想を持たれる人もいよう。もちろん、他方で、しっかりと割を食っている者もいる。それが石油業界とアラブ諸国だ。つまり、このシステムは彼らから顧客を奪うものなのだ。国内の石油産業は元々薄利なので、利益が急減するのはアラブ人だけである。

投資の回収が可能ということは、結局は、アラブ人に持っていかれたはずの金で、ストリート発充電所を作っているに等しい。要は、彼らが失った分、国内が得て、国内で分かち合う…そういう構図である。

2013年03月06日「アゴラ」掲載

 

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