まだ早すぎるメガソーラー事業はいったん白紙撤回にすべき

エネルギー問題




仮に孫正義氏とソフトバンクが本気を出してしまい、日本全国に3億kWものメガソーラーを作り上げてしまったとしよう。総工費150兆円、年間発電量はかつて原発が生み出していたのと同じ3千億kWhだ。ところが、地熱だと30兆円の建設費ですむことが分かり、「120兆円も損したのではないか!?」という議論が沸き起こる。

ここで問題である。果たして、損をしたのは、厳密には誰であろうか?

1・ソフトバンク

2・日本政府

3・電力消費者

答は3だ。その理由を以下から説明していきたいが、本記事は、

「自然エネルギーへの幻想を助長する「原発何基分」という表現」

「今のメガソーラーは“メガ負債”となる」

「原発の代わりが務まる自然エネルギーは今のところ地熱だけである」

の過去3記事とも関連しているので、できれば先に読んでいただけると助かるのだが、仮にそうでなくとも大丈夫なよう、内容を構成しておいた。



元から赤字のものは作れば作るほど負債も巨大化する

現在、発電コストは平均するとだいたい10円前後である。これに送配電経費などがプラスされ、ようやくわれわれが普段知っている電気代となる。逆にいえば、発電コストが10円前後に抑えられていることにより、今の電気代が維持されているといえよう。ちなみに、小口客は手間がかかる割には売上が小さいので、業務用よりも比較的高めだ。これは電気代だけでなく、あらゆる商品に共通する傾向である。よって、「家庭用が企業向けより高いのは不当だ」とか、「新規発電業者に託送料を課すのは不労所得であり、参入妨害だ」などといった、よくある電力会社への非難は、不合理な言いがかりに等しい。

さて、今のメガソーラーは、1kWh=10円で電気を売ると、絶対的に投資を回収できない。これは現在の発電効率・年間発電量・パネルなどの設備費からすると、構造的なものであり、経営努力で何とかなるものではない。だが、事業進出の誘因として適度な利益を保証する固定価格買取制度(以下FIT)下となると、話は別だ。この制度では、業者の儲けが少なすぎると、旨味がないということで、参入促進に失敗する。かといって、業者に暴利を貪らせても駄目。その見極めが当局の采配のしどころであるとされる。要するに、「最初に自然エネルギーの普及ありき」の政治目的を達成するための制度なのである。

この制度の本格始動に備え、ソフトバンクなどの売電予定業者は、「買取価格を40円以上にしてくれないと、メガソーラー事業は採算がとれない」という意味のことを訴えている。「進出してやらないぞ」という一種の牽制球とも取れる。実際、経産省の「調達価格等算定委員会」が設定する買取価格は40円前後になろう。だが、1kWh=40円という価格は、プラス送配電経費の電力単価で考えると、四人家族なら確実に月の電気代が2万円を突破するレベルだ。本来、マーケット的にはありえない価格設定である。

通常の市場であれば、このような価格の電気は誰も買わないため、生産者は作れば作るほど赤字を抱え込むことになる。当然、最終的には負債を抱えて倒産だ。それはアメリカ型の自由な電力市場だけでなく、日本の卸売り市場でも同じことである。電力会社はこのような逆ザヤの電気は緊急性がない限り買い取ったりしない。彼らにしても、最高値の家庭用電力単価でさえ20数円に設定している以上、仕入れ値40円の電気は売れば売るほど赤字になるからだ。ところが、「高めの買取価格」と「在庫ゼロ」があらかじめ保障された夢のような人工市場では、このような欠陥商品でも捌くことができてしまう。

つまり、マーケット基準では赤字のはずが、FIT制度のフィルターを通すことによって黒字にすることができるのだ。よって、業者は一切の負債を背負わずにすむ。では、もともとの負債はどこへ行ってしまったのであろうか。完全に消えてしまったのだろうか。とんでもない。単に消費者に転嫁されただけなのである。

いかに政治の力によって業者が背負うべき負債を帳消しにしたところで、それが本来、負債であることには変わりない。そこで利用されたのが、「消費者に強制的に買わせれば16兆円市場という大海で希釈されてしまう」というトリックなのだ。要は、消費者に広く薄く転嫁することで、いかにも負債が消滅したように見えるだけで、実際は事業者が抱えるべき負債をわれわれ消費者が引き受けている事実には変わりない。よって、業者がメガソーラーを作れば作るほど、必然的に発生する本質的負債のほうも雪だるま式に膨張していき、合法的に消費者負担に化けていくのである。

冒頭の例は、むろんその構造をデフォルメしたものである。負債は政府の予算によって補填するわけではないので、1のソフトバンクはおろか、2の日本政府ですら懐が痛むわけではない。よって、厳密には“補助金”ではない。自然エネ業者・論者にはこのことを強調する人もいる。だが、それは言葉遊びにすぎない。財源が消費者の懐であれば、実質は税拠出の補助金も同じだからである。

すべてのメガソーラー事業をいったん白紙撤回に

「それでも、やらないよりはマシだ」と強弁する人もいるかもしれない。だが、私の考えは違う。「やらないほうがマシ」なのだ。なぜか。このような政治的な手法は、まず「自然エネルギーを何としても普及させなければならない」という前提があり、その上で「それ以外に選択肢がない」場合にのみ、正当化されると考えられるからである。

私は、エネルギー自給率や持続可能性の向上、化石燃料費削減などの観点から、前提そのものには同意する。だが、そのための手段として、われわれは本当にメガソーラー以外に選択肢を持たないのであろうか。あるいは、メガソーラーをメインの手段とせざるをえないほど、事態が逼迫しているのであろうか。この判断が、おそらく、現実的・戦略的な自然エネルギー主義者と、空想的で場当たり的なそれとの分かれ目になるだろう。

「もっと有望な他の選択肢が複数あり、優先順位からいうとメガソーラーは最後であるべきだ」というのが、私の答えだ。つまり、私は「自然エネルギー開発をやめろ」と言っているのではなく、その資金を他の選択肢(地熱・バイオマス・風力など)に振り向けるべきだと主張しているのである。おそらく、現状のままFITを始動させると、もっとも費用対効果の悪いメガソーラーに、もっとも投資が集中してしまう。それによって、電源における自然エネ比を増やすという目的の達成が、かえって遠ざかってしまうだろう。

私はそれを危惧するがゆえに、「すべてのメガソーラー事業は中止すべきだ」という、一見極論ともいえることを、あえてこの場で強調したい。できないことはない。売電業者がどれだけ喚き散らそうが、買取価格を15円に設定してしまえばよいのだ。そして、逆に、地熱やバイオマスなどの地道で手間のかかる電源開発がより報われるような仕組みへと変える。ソーラー屋がいかに怨嗟の声を上げようが、こう畳み返せばいい。

「1kWh=15円なら買い取ると言っているだろう。それなら赤字? では、君らはその自分たちの赤字を消費者が負担するべきだと訴えているのかね?」と。

今やるべきことは太陽電池技術開発への大投資である

では、太陽光発電なるものは永久に使い物にならないのだろうか。この先、ずっと二流電源の地位に留まり続けるのであろうか。まったく、とんでもない話である。

『孫正義氏の「電田プロジェクト」は本当に駄目なのか?』「後半・批判編」で、私はメガソーラー整備の拙速を戒め、このようなことを書いた。

では結局、われわれはどうしたらよいのだろうか。今は「待つ」ことだ。大規模な「電田開発」に乗り出さず、あくまで太陽電池の効率向上と蓄電池の性能向上に粛々と力を尽くす時である。

なぜこのように記したか、詳しい説明を今ここでしたい。現在、スタンダードな太陽電池といえば、結晶シリコン系であり、最近になって台頭しているのがソーラーフロンティア製の化合物系(*銅・インジウム・セレンなどを使うためCIS系ともいう)などだ。これらの市販品に共通しているのは、変換効率が15%程度しかないということだ。だが、技術開発によって、まだまだこの値を上げることができる。対して、地熱は発電効率上昇の余地が少ない。この「伸びしろがある」という点が、太陽光と地熱の大きな違いだ。

今の太陽電池は、太陽光の波長の一部しか利用できない。とくに広大な赤外線域はほとんど捨てている。しかし、光吸収層を多層化することでそれを捉える化合物系の3接合・4接合といった太陽電池や、ナノワイヤー、グリーンフェライトといった革新的な太陽電池が、いま国内の企業や大学の研究室から続々と生み出されている。東京大学の研究チームは、量子ドット型の理論変換効率が75%にまで達すると発表している(管元総理もこの情報を官僚から聞かされて、太陽光発電に突っ走ってしまったらしい)。

そうすると、今は何はともあれ、こういった革新的な太陽電池を世界に先駆けて開発し、製品化に漕ぎ着けるべき時期だとはいえないだろうか。とりあえず、市場デビューを果たせば、当初は高級機であっても、あらゆる製品がそうであったように、次第に廉価化していくものだ。冒頭で触れたように、今の技術で作ったメガソーラーで電力の3割を賄おうとすれば、150兆円もの巨額の建設費が必要になる。だが、発電効率が2倍、3倍と上昇していけば、そのコストもまた倍々ゲームで減っていく。十兆円オーダーのコスト削減効果を思えば、数%の発電効率改善のために1兆円をつぎ込んでも、十分に元が取れる計算になる。よって、私としては、以下の二点を強調したい。

1・発電効率や経済性の改善の余地が大きい間は、何も慌ててメガソーラーを整備する必要がないこと(土地さえあればいつでもすぐに建設できる)。

2・開発費に1兆、2兆円をつぎ込んだところで、リターンの大きさを思えば、何ら惜しくないこと(世界市場も含めるとリターンは数百、数千倍になる可能性もある)。

私に言わせれば、技術開発にしっかりした投資さえ行えば、太陽光発電は将来の「超大物選手」に化けることが分かりきっているのである。ちょうど、15歳のダルビッシュが10年後にはメジャーリーガーになるように。逆にいえば、今、メガソーラーをぶっ建てていくことは、メジャーリーグの試合に中学生のダルビッシュ少年を登板させるようなものだ。必ず敗退するといってよい。

それでも、「メガソーラー建設は太陽電池メーカーに対する事実上の開発支援になる」という見方もあるかもしれない。だとしたら、せめて「パネルの9割以上は日本製を使うこと」などの縛りをかけてほしい。今のままでは、売電業者は利幅の最大化のために中韓製品を大量導入するだろう。彼ら外国企業は、儲けた金でまたぞろ日本人技術者を引き抜いたりして、いち早く革新的な太陽電池を世に送り出すかもしれない。つまり、日本の消費者の金で、彼らが次世代の覇権を握るというわけで、これほどの悪夢もあるまい(もっとも、仮に最初からそれを目論んでいたとすれば、見事な計略というほかないが)。

繰り返すが、「今の」メガソーラーは“負債”でしかないのだ。外国の整備するメガソーラー事業に日本企業が参入するのは大歓迎だが、国内では、少なくともここ十年は従来の住宅・公共・企業用などのプライベート向けだけを粛々とやっていればいい。商用電源への巨額投資は、あくまで「地熱開発」と「火力の発電効率の上昇」の2点に重点を置くべきだ。これに黙々と二十年ほど取り組むと、2030年頃には驚くべき成果を達成することができるだろう。だが、一種の「空気」というか「勢い」で、このままFITをテコにしたメガソーラーの大量整備に突っ込んでいったら、まったく逆の結果となる。おそらく、早ければ5年後の2017年頃には、大論争が沸き起こっているはずだ。

「今まで何兆円もの金をメガソーラー建設に投じてきたのに、電源の割合をみるとスズメの涙ほどしか反映されていない。いったいなぜだ!?」と。

理由をよく知る読者の皆さんは、醜い責任の擦り付け合いをする関係者たちを横目で見ながら、こう呟いていただきたいものである。

「(メガソーラーは)坊やだからさ」と。

次回は『「光の可採化」によってエネルギー問題は終焉する』をお送りしたい。

2012年04月13日「アゴラ」掲載

(2016年付記:予想はほとんど的中したと思います)

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