自然エネルギーへの幻想を助長する「原発何基分」という表現

エネルギー問題
出典 GATAGフリー画像




先日、日本経済新聞を見たら、一面に「太陽光発電、原発6基分に」というインデックスがあり、そんな馬鹿なと思いながら他面の本記事のほうを開いてみたら、こんなことが書いてあった。

「太陽光発電の国内導入量が年内に500万キロワットを超え、600万キロワット近くまで伸びる見通しになった。原子力発電所6基分に相当する」(2012 3 20)

「日経よ、おまえもか」である。

一応は「最大出力年内に原発6基分」という小見出しがあり、出力ベースの換算であることを断ってはいるが、記事を読んだ人の大半は、「国内にある太陽光発電が原発6基と同じだけの働きをするまでになった」という印象を持ったに違いない。

この、電源の出力だけを比較して「原発×基分」と表現する行為は、マスメディアでは以前から横行している。前々から気になっていたが、これは本当に注意してもらいたい。というのも、少なくとも年間発電量ベースで見ないと、公正な比較にはならないからだ。

年間発電量は「出力×稼働率」で表すことができる。火力は燃料供給によって稼働率を高めることができるし、原発はいったん燃料棒を装てんしたら年中放熱するので高稼働率を維持することができる。対して、太陽光の稼働率は、お天道様まかせだ。自然現象をそのまま利用するタイプの自然エネルギー発電(*つまりバイオマス火力を除くもの)の場合、稼働率はあくまで設置場所の自然環境が決める。

日本の場合、各地によって日照差はあるが、平均すると、スタンダードな固定式の太陽光パネルは、年間に出力の約1千時間分を発電することができる。これは年間稼働率にすると約12%である。太陽追尾式だと、この稼働率をさらに5%前後、上げることもできるが、その分、パネル間の間隔をとる必要があるので、土地代の高い日本ではジレンマが生じる。ちなみに、陸上風力だと、この倍の2千時間前後と考えればよい。

一方、原発の稼働率は、今は見る影もないが、2000年ごろは平均で8割をキープしていた。アメリカや韓国などは、ここ十年間の平均でも稼働率9割である。つまり、順調であれば、年に7千から8千時間も稼動することができる。

要は、年間発電量ベースの比較とは、パートタイマーの年収の比較だと思えばいい。その年収は「時給×年間労働時間」で表される。年間にどれだけ労働したかを勘案せずに、AさんとBさんの時給だけ比較して「同じだ、違う」と論じても意味がない。

さて、日経の記事によると、国内の太陽光発電の出力は、本年度末で600万kWだそうだ。これは年間発電量に換算すると、約60億kWhである。対して、100万kW級の原発の場合、稼働率が8割とすると、年間発電量は約70億kWhだ。原発6基分だと約420億kWhである。

つまり、本当は、日本がこれまで延々と導入してきたすべての太陽光発電設備――それこそ家庭用からメガソーラーまで――を合計しても、原発1基分の発電能力に届いていなかった、というのが事実なのだ。これは例えるなら、孫悟空が「みんな、オラに元気を分けてくれ!」と、世界中から元気玉を集めてみたが、結局、フリーザ一人に敵わなかった、という情けないオチと同じだ。

しかも、新鋭基は出力150万kW前後が主流化しているので、今では「原発1基=100万kW」という前提すら怪しくなりつつある。

さらに、追い討ちをかけるようだが、量的な供給能力だけでなく、質的なそれでも等しいとは言い難い。なぜなら、火力や原発ならば人為で定格出力にもっていくことが可能だが、600万kWの太陽光発電設備が本当に600万kWの出力を発揮するためには、全国の太陽光パネルに一斉に直射日光が差す、という神の奇跡が必要だからである。

一般に、ある商用電源の発電能力を測る場合、第一に「年間発電量(出力×稼働率)」、第二に「供給安定性および自在性」、という二つの基準が不可欠だ。なぜなら、刻々と変化する電力需要に応じた供給を行う必要があるため、「一定出力の発電を持続する」とか、「スイッチングが利き、発電量の調整ができる」などの性能がどうしても求められるからである。だから、以前「孫正義氏の「電田プロジェクト」は本当に駄目なのか?(後半・批判編)」でも述べたことだが、気まぐれ発電をする太陽光・風力は、そもそも蓄電池とセットにしない限り、商用としてはノーマル電源とは言い難いのである。

ちなみにだが、同じ記事によると、その孫社長のソフトバンクは、とりあえず20万kWのメガソーラーを全国各地に立ち上げるそうだ。これは火力・原発でいえば、3万kW程度の存在感である。孫氏は、かの「電田プロジェクト」発表の際、「全国の休耕田や耕作放棄地の2割(10万ha)に太陽光パネルを設置すると、原発50基分の発電が可能だ」という意味のことを、全国に向けて力説してしまった。これもまた5千万kWの出力が「原発50基分に相当する」と信じてしまった気の毒な例である(もっとも、その素人ぶりゆえに、私は逆に大変好感を持った。彼は「なんとかして50基の原発の代替方法を模索しなければ」という強い危機感をもって行動した国士かもしれない、と信じたいのだが・・・)。

このように、年間発電量ではなく、出力ベースで「原発×基分」と表してしまう行為は、聞く側にあまりに現実と乖離した期待を持たせてしまう。以後、メディアの方々には自重をお願いしたい。

もっとも、他方で、年間発電量の巨大さがそのまま経済的であることを意味しない点にも注意を払う必要がある。なぜなら、電源の経済性は、そのライフサイクルにおける「総コスト÷総発電量」によって算出されるからだ。たしかに、原発は高出力・高稼働率ゆえ、総発電量が凄まじい。電力をより多く販売できるので、それだけ収益を上げられる。だが、今の原発のように総コスト部分がどんどん膨らんでいっては、そのメリットが相殺されていくのもまた事実だ。昨今、福一事故費が追加されたこともあり、日本における原発の経済性は悪化の一途をたどっている。

そして、自然エネルギーにまったく望みがないというのも、事実に反する。現に、大型水力は大きな役割を果たしている。地熱はそれ以上に有望だ。また、太陽光や風力も、欠点を補正し、技術的に改善していくことによって、その経済性を向上させることができる。自然エネルギーの、「クリーン・持続可能・国産エネルギー」という三拍子のメリットを考えれば、その経済性に少々のゲタをはかせても構わない。逆に、火力や原発などは、表面の経済性には現れてこない「外部コスト」を厳しくチェックする必要がある。

いずれにしても、大事なのは、自然エネルギーの長所も欠点も含めて、事実をありのままに受け入れるマインドである。過大評価も過小評価も一切してはならない。当然、この「日本中の太陽光発電を合わせても原発1基に届かない」という現実も、直視しなければならない。それによって、自然エネルギーをメイン化していくことが非常に困難な道のりであることが分かるし、その厳しい自覚から真の自然エネルギー普及戦略も生まれてくるからである。

自然エネルギー論者ほど、科学的現実的でなければならないのである。

(*日経の元記事では「住宅用太陽光発電システムの価格」の折れ線グラフと、「太陽光発電の導入量」の棒グラフが、重ねて表されていたので、一見、後者は住宅用の導入量を示しているのかと思ったが、実際には公共・産業用も含めた値であった。――それでも太陽光にチップを張っている山田高明より)

2012年03月26日「アゴラ」掲載



(再掲時付記:これは本当にエネルギー問題を論じる上での常識として知っていてほしいです。政治家でも間違えている人が少なくない。)

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