なぜ日本はEVの普及を急ぐべきなのか(その7)――第二次自動車界大戦の行方は?

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(再掲時付記:長いので、最初に結論を持ってきます。

脱石油のキー対策となるのが「自動車の脱石油化」。しかし、バイオ燃料車・燃料電池車・天然ガス車は代替適格性に欠けている。

以上。以下から本文です。)

今から一世紀ほど昔、ディファクト・スタンダードの座をかけて、内燃自動車・蒸気自動車・電気自動車が覇を競った時代があった。その結果、パワーや走行距離の面で秀でた内燃自動車が圧勝した。当時、内燃機関と内燃車は発明されて日も浅く、猛烈な技術革新の途上にあった。スタートダッシュ時の性能が決め手になり、内燃車はあっという間にライバルを引き離して、市場を席巻した。以来、一世紀――。

現在、自動車界で再び大きな競争が起きようとしている。自動車社会の草創期における市場競争を「第一次自動車界大戦」と呼ぶならば、それは「第二次自動車界大戦」と称するにふさわしいかもしれない。ただし、今回は勝負の構造そのものが根底から異なる。

背景にあるのは石油問題である。これまで自動車が主な燃料としてきた石油は、資源としての先が見えてきた。すでに先物市場では兆候が表われているが、今後ますます不経済化することが予想される。より根本的な問題は石油系燃料が「持続不可能」である点だ。これらの欠点を克服することが時代の希求となった。対策は当然、「自動車の脱石油化」である。そして、そのニーズに応えるのが次世代車だ。

そのラインナップとして、EV、燃料電池車、バイオ燃料車(フレックス車)、天然ガス車などが挙げられている。このうち、バイオ燃料車と天然ガス車は、燃料の代替性に主眼を置いた選択であり、すでに普及の実績もある。対して、EVと燃料電池車は「自動車そのものの変革」であると言ってよい。果たして、現行車に取って代わり主役の座を射止めるのはどれか…これが今回の「第二次自動車界大戦」の様相である。

さて、前回はバイオ燃料車が日本には適さないという話をした。一方で、ブラジルで成功している現実を思えば、今回の選択には地域性(お国柄)という要素も関わってくるようだ。よって、判断基準はあくまで「日本にとって一番メリットの多い選択肢はどれか」であって、欧米がどうとか、必要以上に気にしないことが重要だと思われる。

今回は、燃料電池車と天然ガス車について述べたい。といっても、燃料電池車に関しては過去に水素エネルギー社会は夢で終わるという記事で、かなり割いた。同車の普及の可能性は低く、また水素もエネルギーの主役にはなりえず、「あくまで部分的・地域的な利用に留まる」というのが、記事の趣旨だった。現在もとくにその考えに変更はなく、よってここでは補完的な内容に留めておきたい。

これまで書いてきたように、私は燃料電池の普及それ自体には大賛成であり、熱心な支持者である。ただ、“同じ燃料電池”であっても「定置用」と「移動体用」は分けて考えねばならないと思っている。

読んで字のごとく据付タイプの定置用は、地産地消・分散型のエネルギー供給システムの確立に大きな役割を果たすものだ。対して、移動体用とは端的にいって「運輸もの」のことである。中でも「自動車用としては不向きだ」というのが私の考えだ。

同じ燃料電池支持者こそ、この点を分かってほしいのだが、どうやら人間というものは一度、自説を公衆の面前で掲げてしまうと、それがアイデンティティになってしまうらしく、燃料電池車の支持者にとってこれは半ばプライドの問題と化している。



燃料電池車が普及しない6つの理由

私が燃料電池車の普及に懐疑的な理由は、以下のようなものだ。

第一に、自動車需要を満たすだけの大量の水素の調達先が依然として不明だ。しかも、現時点での供給源は「化石燃料」に頼っている。最大の供給者が石油・ガス企業であり、将来的に有望視されているのが製鉄所と火力発電だ。現在のところ、コークス炉から発生する水素は自家消費に回されているが、一部で地域的なエネルギーとして活用され始めている。新型火力の石炭ガス化施設も、将来の水素の供給源として有力視されている。

だが、これは二重の意味で問題を孕んでいる。そもそも化石燃料由来の水素だけでは自動車需要に届かない。次に、化石燃料の消費を削減していく方針と矛盾する。

そもそも社会の脱石油・脱化石エネルギーのために、自動車を石油系燃料の頚木から脱却させるのであり、燃料電池車はそのための手段だ。よって、同車に化石燃料由来の水素を投入していたのでは、はじめから矛盾を内包してしまう。そこで、石油・天然ガス・石炭などから取り出す水素とは区別して、再生可能renewableという意味での「R水素」という概念が以前から提唱されている。これを用いれば、最終的に全車を燃料電池式にチェンジした場合のニーズも満たせ、かつ持続可能性も達成されるというわけだ。

第二の問題が、このR水素の経済性だ。これは一般に、電気分解のように外部から何らかのエネルギーを投入することで水から取り出す水素を指している。製法としては、太陽光や風力発電などを使った電解法、光触媒を使った水分解法、高温ガス炉による熱分解法、触媒を使った水蒸気分解法などがある。ゴミ処理の過程で取り出す副生水素も、再生可能の内に含まれる。ただ、「エネルギーの産出にエネルギーを投入する」という行為には、必ずシビアなエネ収支とコストの問題がついて回ることを忘れてはならない。

原子炉を利用した熱化学分解法は実証に漕ぎ着けていたが、福一事故以降、ほとんど非現実化したため、今のところR水素の大規模な生産方法はというと、太陽光や風力などの自然エネルギー発電由来の電力を用いた電気分解以外に見当たらない。一般に、そうして生成した水素を圧縮してタンクに積めておけば、高エネルギーの保存と輸送と任意の利用とが可能となる。これを使えば、太陽光や風力発電の出力変動を安定化させることも、又たくさんの燃料電池車を走らせることもできる。よって、一見「持続可能な水素エネルギー社会」が実現するかに思える。

だが、すでに何度も触れたが、技術的に可能ということと経済的に可能ということは、まったく別個の問題なのだ。

大雑把に、太陽光による電力が1kWhあたり20円、風力のそれが10円と仮定しよう。すると、この電力によって製造され、圧縮等の過程を経た水素は、一体いくらになるのだろうか? その水素をさらに燃料電池に投入して起こした電力は、最終的に1kWhあたり何円になるのだろうか? このように、収支の悪いエネルギーは必然的に高価にならざるをえず、それが経済性の問題を引き起こす。一般に高コストなエネルギーほど経済活動の停滞を招き、われわれの暮らしを抑圧する。よって、社会は常に代替手段を求める。

それが第三の、競争相手と比較してどうか、という問題とも関わってくる。ユーザーは常に「もっと安価な手段で同じ成果を得ることができないか」と考え、市場がその解決策を模索する。R水素に代替手段がないのなら、少々不経済であっても、それは普及するかもしれない。だが、「不安定な電力の保存法」としては蓄電池が、またガソリン軽油自動車の代替としてはEVが、すでに並存しているのだ。つまり、R水素は「電力+蓄電池」とガチンコで競合する。むしろ、R水素のほうが未発達な蓄電池の代替案として生み出された側面があるため、蓄電池の性能・コスト改善と当初から競合関係にあるのも頷ける。

要するに、「燃料電池車と水素インフラ」というシステムは、「EVと電力インフラ」というそれと市場においてすでに競合関係にある。ゆえに、どちらが優位か、ユーザーの立場にたった判断が求められる。ただ、すでに決着済みだと、私は思う。後者の場合、太陽光や風力に拠る電力は、そのまま送電線を伝ってEVのバッテリーに貯まり、モーターで消費される。ところが、前者の場合、その電力でいったん水素を作り、それをタンクローリーなどで運び、車内の燃料電池で再び電力に変えるという手間を余儀なくされる。

つまり、生産・保存・輸送流通・利用のうち、水素燃料が電力よりも勝っていると思われるのは、保存の点だけなのである。しかも、保存が利くといっても、石油系燃料のように缶に入れて置いておくことができない。安全性などを考えると、結局は非常に面倒で高価な装置になる。おそらく、蓄エネ法としては、まだ電力を使って圧搾空気を作ったほうが簡素で安全で経済的かもしれない。このように、水素は電力と比べてはるかに使い勝手が悪い。よって、蓄電池の性能とコストが実用水準に達した途端、「電力をそのまま自動車に投入すればよいではないか」という単純な指摘が、たちまち正鵠を射てしまうのだ。

第四はインフラ整備の困難さだ。燃料電池車の場合、インフラはほぼゼロからの立ち上げとなる。以前から報道されているように、経済産業省は2015年を同車の「普及元年」と定め、300からの水素ステーションを補助金によって建設する予定でいる。それに合わせて、トヨタが燃料電池車を市場投入する計画だ。だが、わずか数百の給エネ所と、官公庁や関係団体に無理やり“割り当て”る台数だけで、事業がテイクオフするのか。

もともと、ステーションは不特定多数の潜在需要を当て込むことで経営が成り立つ。その上、水素ステーションの場合は建設費が通常より高く、運営・立地面でも規制だらけで、無人化も不可だ。よほど燃料電池車が爆発的人気を博さないと、企業のほうは建設を進めようとは思わないだろう。今のところ、補助金なしでは、とうてい投資が回収できそうにない。だが、300基の水素ステーションを作る資金があれば、1万基の急速充電器を道路上(ないしは歩道上)に設置できるのだ。同じ補助金を投じるなら、どちらが社会にとってメリットの高い選択か、もっとよく精査すべきではないだろうか。

第五は、上とも関係するが、「アドバンテージのなさ」だ。はっきり言って、燃料電池車にはアピールポイントがない。たとえば、EVならば、現行車と比較して、「自宅や勤務先で充電が可能」とか、「ランニングコストが安い」といった長所がある。現時点ですでに一定以上の距離を走る場合、総コストで有利との比較結果が出ているので、タクシー会社などがEVへの買い替えを進めているのが興味深い。あとは蓄電池の価格さえ下がれば、経済性の分岐的が一般ユーザーのレベルまで降りてくることは必然だし、事実、年々コストが改善している。だが、燃料電池車は内燃車同様、ステーションでしか給エネできない。しかも、ランニングコストが高い。インフラ整備費も高い。内燃車より秀でた部分がない。

対EVでは、かつては「走行距離が長い」というメリットがあった。それゆえ「EVは短距離用、FCVは中距離用」という使い分けも考えられていた。だが、蓄電池の性能向上により、EVが中距離域をカバーし始めた。将来的には1千~1500キロという走行距離も想定されている。EVに対する優位性も失いつつある今、燃料電池車はもはや存在意義さえ問われている(*強いて優位点を挙げると、給エネ時間の短さくらいか)。

最後の第六は、燃料電池車のシリアス事故時の恐ろしさである。むろん、メーカーは繰り返し衝突実験をしてリスクの最小化に努めるだろう。炭素製の水素タンクも公平に見て素晴らしい耐久性だ。だが、可能な限りの対策を講じても、起きる時は起きるのが大事故だ。おそらく、大爆発になるだろう。内燃車やEVなら怪我で済んでいた運転手や同乗者も助からない。下手すれば周辺が吹っ飛ぶ。一度、大爆発事故が起きて、マスコミから「走る爆弾」などと異名を頂戴すれば、それで命脈が尽きる。政治生命ならぬ自動車生命が断たれる。警察・消防庁などは激怒して規制強化に乗り出し、メーカーは萎縮し、普及の音頭をとってきた経済官僚たちはトンズラするだろう。

燃料電池車は石油産業の生き残り策なのか?

このように、「燃料電池車と水素インフラ」は、すでに破綻している構想に思えてならない。問題は、もはや市場競争力がほとんどあるとは思えない燃料電池車を「誰」が「なぜ」推しているのか、ということだろう。顔ぶれを見れば、だいたい想像がつく。

補助金を突っ込んだ水素ステーション建設事業に集結しているのは、見事に石油会社とガス会社ばかりである。とりわけ中核を成しているが石油業界だ。

奇妙な話ではないか。もともと、次世代車を普及させる目的は、脱石油のためだ。ところが、石油系燃料の代替と称して、石油から水素を取り出すというのだ。

こういう自己矛盾を内包する政策が最終的に行き詰ることは、誰の目にも明らかである。愚行の裏には、たいてい政治的な思惑が潜んでいる。私の“邪推”と断った上だが、おそらく以下のような事情だと思われる。

石油産業は現在、自動車に対するエネルギーサプライヤーの地位を独占している。それを完全に崩してしまうのがEVの普及だ。だが、燃料電池車が普及すればどうか。石油を水素に化かすことで、独占の地位は保持できないが、少なくとも駆逐されずにすむ。

ところが、最大の問題は、市場任せでは同車の普及が少しも進まないことだ。だから、業界の政治力を駆使して、ごり押しする必要がある。幸い、石油産業は経済官僚OBの巣窟だ。現役の経済官僚といえども簡単には頭が上がらない。かくして、補助金で水素インフラを立ち上げて、メーカーを指導して燃料電池車を市場デビューさせ、官公庁に買わせる…。

大方、こんなところではないか。ちょうど、電力会社や原子力産業への天下りと同じ構図が、化石燃料業界との間にも存在すると思えばいい。ミイラ取りがミイラになるというが、経済官僚たちは石油産業に天下っているうちに一蓮托生化し、自身が石油マフィアになってしまったのだろうか。そもそも官僚は国益の体現者だ。ところが、省益に呪縛され、ついには企業益の代弁者に成り下がり、斜陽産業の悪あがきに手を貸す。こうなると官僚もおしまいである。実際、往時のキレは感じられなくなった。かつてのエネルギー政策における経済官僚の手腕を評価する者として、残念でならない…と、あくまで“邪推”である。

燃料電池車を投入するトヨタも、本音では懐疑的なようだ。全世界でのFCVの年間販売は、20年度でたった数万台の見込み。次世代車のラインナップを揃えておくという以上の意味はなさそうだ。ドイツメーカーが同車に執心なのは、国内の送電の問題で躓いており、蓄電池の替わりに水素の大量生産を考えているからで、日本が真似る必要はない。

水素は自動車とは別の使い道を

もっとも、水素それ自体が未来の重要なエネルギー源である事実に変わりない。実際、今後とも副生水素はなくならない。とくに、これまで捨てられていた低位の廃熱で水蒸気から採取する方法が考案されたことから、産業界からの供給は増えていくと思われる。

わざわざ自動車燃料にするから不必要に不便化するのであって、もっと有効な利用法があるはずだ。やはり、下手に全国的に輸送流通しようとせず、まずは発生源での自家消費や地域利用を推進すべきだ。幸い、燃料電池も実用化された。オンサイトで発電・給湯する利用法は、今後、市場が普及を進めていくだろう。むろん、小口だけでなく、コークス炉や将来の石炭ガス化施設から生じる大量の水素も同様である。それは水素エネルギー社会を待望する官僚などが供給源として当てにしているものだ。しかし、その水素を全国流通させて、遠方や移動体の消費端で電力化する方法だと、水素インフラを別途整備しなくてはならず、巨額のコストが生じる。だが、大型の燃料電池でその場で電力化すれば、既存の電力インフラを流通設備としてそのまま利用できる。この差は大きい。

では、水素燃料は、移動体=運輸用途としてはまったく不向きなのだろうか。必ずしもそう決め付けるべきではなく、「路線固定もの」や電力との競合が少ない機種ならうまくいく可能性があるかもしれない。たとえば、機関車や船舶・航空機などである(*むろん、航空機の場合は「技術が許せば」という条件が付くが)。こういった定点を行き来する移動体は、あらかじめ需要が決まっている。一般に水素の流通設備は高価だが、需要が明確であればそれに応じた供給設備を整えればいいわけで、投資の無駄が生じる心配が少なく、リスクのコントロールがし易い。自動車としても唯一、路線バスならうまくいくのではないか。また、船舶・航空機の場合、将来的に国産バイオ燃料だけでは需要に届かない可能性もあるので、その意味からも、水素の燃料化を積極的に推進すべき分野である。

このように、適材適所という言葉があるが、何も無理に水素を自動車用に使う必要はない。電力と競合して敗北を喫し、補助金を無駄にするくらいなら、最初から競合しない分野への積極投入を考えるべきである。何をもって“水素エネルギー社会”というのか定義次第だが、将来的に水素は「メイン」にならなくとも、地域的・部分的なエネルギー源としての可能性はあるわけで、理念先行ではなく現実的な普及策こそ模索すべきだ。

天然ガス車は問題の解決策にはならない

さて、最後に「天然ガス車」について簡単に触れる。すでに宅配便やタクシーなどで普及している。天然ガス燃料は一時的な石油の代用品としての使い道がある。だが、長期的には論外の代物だと、私は考えている。

なぜなら、そもそも「地下資源への依存から脱却して、最終的にエネルギーシステムの持続可能化を目指す」という大目的に、そぐわないからだ。EV・燃料電池車・バイオ燃料車の三つは、そのための解決策としての優劣を競うものだが、天然ガス車は本質的に解決策たりえない。単に問題を先送りする一時しのぎの選択でしかない。むろん、再生可能ガスなら問題ないが、量的に全自動車をカバーできる見込みはまったくない。

以上が第一の理由である。第二の理由は、単純な効率の比較だ。

内燃車に天然ガスを直接ぶち込んだ場合、エネルギーの利用効率はよくて3割程度にしかならない。しかし、天然ガスをGTCCに投入した場合の発電効率は6割。その電力を消費端に送電する際に5%のロスが出るが、EVのモーターは電気の9割を動力に変換する。そうすると、同じ天然ガスをエネルギー源とするなら、いったん発電所で電気に変えてEVに投入したほうが総合的な利用効率が高い、という計算になる。

ちなみに、以上は同じ重量の内燃車とEVの場合に成立する比較であり、厳密には同車種で後者が1割増しだが、この程度なら誤差の範囲に含めても差し支えないと思う。

最初に述べたように、脱石油のキー対策となるのが「自動車の脱石油化」だ。ところが、以上のように、バイオ燃料車・燃料電池車・天然ガス車は代替適格性に欠けていると言わざるをえない。よって、結局のところ、本格的にガソリン軽油自動車の代わになりえるのは、日本ではEVしかないと思われる。つまり、答えは「自動車のEV化」となる。

ただ、これでは「消去法ではEVしかない」という主張に近い。そうではなく、性能や経済性において内燃車を上回らねば、真の普及には至らない。果たして、EVにその可能性があるのだろうか。

次回はそれを追及してみたい。

2012年12月11日「アゴラ」

(再掲時付記:トヨタが燃料電池車を発売しましたが、結局、EVに負けてしまうと思います。)

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