水素エネルギー社会は夢で終わる(その1)――燃料電池車への疑問

エネルギー問題




メタン文明と紛らわしいものに、「水素文明」「ガス体文明」「気体エネルギー文明」などというものがある。最初のは文字通り「水素主体」の文明であり、後の二つも「水素+天然ガス」を意味している。共通しているのはエネルギー源として水素をメインに持ってくることであり、それゆえ“水素エネルギー社会”ともいう。これらは一見、メタン文明とよく似た印象を受けるが、実際には本質的に異質であり、しっかりと区別する必要がある。

これらに共通するのは、「水素の生産から流通に至るインフラ網を構築し、自動車をはじめとする需要家のエネルギー源とする」という構想だ。たいへん多くの方がこれを真剣に主張しているが、私の考えでは、社会として明白に誤った選択である。少なくとも、人間が合理的な選択をする生き物であるならば、このような未来はありえないと思う。なぜなら、水素で自動車を走らせようという発想自体が、そもそもの間違いだからだ。

水素自動車と称されるものには、ロータリーエンジンなどを利用した内燃自動車もあるが、一般的には「燃料電池車」のことを指している。一時期、マスメディアは猫も杓子も同車を「未来の乗り物」と持ち上げていたが、09年に「電気自動車元年」が訪れて以来、その論調も下火になった。だが、政府内には今でも「2~30年度の水素エネルギー社会の本格的到来」を謳い、燃料電池車の普及に異様にこだわっている人たちがいる。このように「水素エネルギー社会」と「燃料電池車」は、だいたいセットで語られることが多い。

たしかに、来たるメタン文明でも、燃料電池は重要な役割を果たす。なぜなら、大は火力発電所から小は一般家庭まで、ガスに含まれる水素を使うことで、オンサイトで化学的に電気を作り出すことができるからだ。その際に同時に発生する熱も回収すれば、高いエネルギー利用効率を達成することができる。しかも、太陽光や風力と違って人間が発電をコントロールできる。それゆえ、電力事業とは無縁の企業や家庭であっても、ガス管と繋がっている限り、常用発電が容易になる。よって、将来的には素人にもプロ級の電力供給が可能になりかねないので、電力会社の中にはこれを脅威視する向きもある。

ただし、である。「そんなに燃料電池が素晴らしいのなら…」ということで、うっかり「燃料電池車」まで素晴らしいものと錯覚しないように注意しなければならない。今なお多くの人が犯している過ちであるが、同じ燃料電池といっても「定置用」と「移動体用」は、完全に分けて考える必要がある。なぜなら、後者の場合、使い勝手が極端に悪化し、社会にいらぬ負担を強いるからである。その理由を以下に説明しよう。



燃料電池車が本質的にEVに劣る理由

燃料電池には水素と酸素という「燃料」が必要だ。ただ、酸素は空気中から採取できるが、水素は人間があらかじめ用意する必要がある。だから、エネファームなどの定置用の燃料電池は、ガス管に接続せねばならない。メタンを改質して水素を取り出すという工程がどうしても必要になる。だが、逆にいえば、それだけですむ。ところが、自動車などの移動体用だと、それができないので、水素タンクを別途搭載する必要が生じる。

これが「定置用」と「移動体用」の命運を分ける。単に利便性の問題というより、諸悪の根源になる、と評しても過言ではない。なぜなら、その移動体を機能させるためには、水素の生産・流通のインフラを確立し、維持する必要があるからだ。しかも、この種のエネルギー需給プロセスは必然的に多くの無駄を生じさせるので、非常に利用効率が悪い。

機関車や路線バス程度の需要ならともかく、自動車用ともなると、早晩、製鉄所などから出る副生水素だけでは足りなくなる。よって、大規模な水素生産が不可欠になる。つまり、何らかのエネルギーを使って水素を生産しなければならない。しかも、気体の水素を積んだところですぐになくなってしまうので、圧縮したものか、又は液体水素でなければ、車の燃料源としての用を成さない。ちなみに、液体水素は圧縮水素に比べて8倍の密度があるが、極低温のため扱いづらい。この液体水素を、ちょうど石油を運搬する時のように、専用のタンクローリーに入れて、各水素ステーションまで輸送しなければならない。この水素運搬車とステーションも、専用のものを一から構築する必要があり、しかも石油用に比べて数倍のコストがかかる。

このように、第一に、水素を生産するためにエネルギーを使う。第二に、その水素を圧縮又は液化するためにまたエネルギーを使う。第三に、その燃料水素を各ステーションへと輸送するために、またまたエネルギーを使う。以上、供給プロセスにおいて三度のエネルギー投入が必要になる。これでようやく車に水素燃料を注入することができる。ところが、燃料電池の発電効率はトップランナーでも6割程度にすぎない。この発電プロセスでまたもやエネルギーがごっそり減価する。そうやって生み出した電気でモーターを回すが、その際にまた1割弱のロスが生じる(これはEVも同じ)。このように、消費プロセスでも少なからぬ損失を生む。

以上、燃料電池車は需給のプロセスにおいて、エネルギーの加工・改変工程を重ねる必要がある。よって、効率においてとうていEVには及ばないことは素人でも分かると思うが、念のために詰めておきたい。上記のプロセスに当てはめて考えてみると、EVならば、水素を生産するためのエネルギーを使って最初から電気を生産すればよい、ということになる。そして、電線を伝ってそれを車体のプラグまで届ける。その電力を使ってモーターが車軸を回す…このように、もっとシンプルですむ。特別なインフラの新設も不要だ。

そもそも単純な問題なのである。電力と水素はどちらも二次エネルギーだ。EVはそれで走るが、燃料電池車はその水素を使って電気を生産しながら走らねばならない。これでは二次エネルギーと三次エネルギーの競争である。次元の異なるものは、最初から競合関係にない。よって、燃料電池車はEVに絶対的に優ることができない(*ただし、副生水素というゴミ水素を利用する形でなら、経済的に成り立つ可能性も開ける。次回説明)。

もっとも、需要体としてエネルギー利用効率が悪くとも、一応は燃料電池車にもアドバンテージはあった。それが「液体の形でエネルギーの保存ができる」「その液体燃料を使うことで長距離走行ができる」という点である。ところが、三菱や日産のEVのように、すでに車両用の蓄電池は実用域に達した。その上、世界中が蓄電池開発競争に参入しているため、性能とコストは年々改善されている。充電時間や走行距離の問題も、すでに解決されつつある。よって、今では燃料電池車の優位点も失われてしまった。

合理的に考えて、燃料電池自動車なるものは、すでにEVに敗北しているのではないだろうか。

2012年03月22日「アゴラ」掲載

(再掲時付記:トヨタの燃料電池車は本当に素晴らしいと思います。技術者の皆さんには心から敬意を表したい。しかし、技術的に素晴らしいというのと、エネルギー利用的・社会的に素晴らしいというのとは、また別だと思います。)

 

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