以下は、世間の常識からすればかなり風変わりな主張かもしれない。
あまり賛成反対と熱くならないで、世の中にはこんな奇妙な考え方をする変わった者がいるのか、というやや引いた視線(?)で読んでもらえれば幸いである。
原発か、自然エネルギーか、という二者択一の疑問
反原発派が「原発を廃止して自然エネルギーの導入を」と訴え、対する原発肯定派が「自然エネルギーなんぞ使えない」と反発する言論風景が日常化して久しい。不幸にして、ほとんどの人が「原子力か、それとも自然エネルギーか?」という二者択一論に呪縛されてしまっている。このような場合、われわれはつい「対立するうちの、どちらか一方が正解である」と思ってしまいがちだ。しかし、本当にそうだろうか。
もしかして、どちらも間違っており、国全体が二派に分裂して、科学的に不正確なイデオロギー論争に熱中している可能性はないだろうか。そもそも両者は対立する存在なのだろうか。あるいは、原子力推進と自然エネルギー推進は本当に矛盾するのだろうか。
私の考えでは、電源整備にあたっては「その時点における技術的・経済的・社会的条件下でもっとも合理的な手段は何か」という基準があるのみであり、その線で最適化に尽力するだけの話だ。
むろん、それらの条件は時代とともに変化するので、それに合わせて電源もまた柔軟に進化していかねばならない。しかも、電源整備には時間がかかるので、常に時代の流れを読み、その一歩先を見極める必要がある。素早く変化できないと、不利益を被るか、淘汰されるだけの話である。
このような考え方からすると、「自然エネか、原子力か」などという二者択一論争は、空疎で観念的であり政治的なものといえる。
そして、この基準でいえば、世の中がいったん脱原発しつつ、ガスと自然エネルギーのコンビに向かうことは必然であり、かつ正しいというのが、私の考えである。ところが、同じ基準でいえば、その後に「本当の原子力の時代」が訪れて、そのガスと自然エネルギーのコンビを電源から駆逐してしまうこともまた必然であるというのが、私の予測である。
もちろん、私は禅問答をしたいのではない。以下から説明しよう。
郊外の電力源として自然エネルギーがもっとも優れている訳
自然エネルギーの長所の一つは、個産個消・地産地消が可能であることだ。これは今の原発にはできないことである。合理的に考えれば、ここから「需要規模に応じて原子力と自然エネルギーの両者を使い分ける」という発想が出てきても不思議ではないはずだ。
「もしも太陽光発電で100万kW級原発の代わりをしようと思えば、山手線の内側に等しい面積(6千ha超)が必要だ」という例え話がある。たしかに、発電効率15%のパネルを使った場合、ほぼ5千haもの面積が必要になる。直径100m級風車ならば4千ha超が必要だ。ただ、これは「孫正義氏の「電田プロジェクト」は本当に駄目なのか?(前半・擁護編)」でも言ったが、そもそもフェアではない比較だ。なぜなら、太陽光パネルや風車は元々のエネルギーを採取する段階から始めているので、その基準でいえば火力や原子力はもっと広大な鉱区や長大な輸送ルートに依存することになる。しかも、燃料となるエネルギー資源は枯渇性であり、外国にあるため、外貨での支払いを余儀なくされる。
つまり、日本においては、エネルギー密度のメリットをとれば、その種のデメリットを甘受しなければならない。対して、国産・無燃料・持続可能のメリットを取れば、エネルギー密度を犠牲にしなければならない。要は価値相対的なもので、単純に良し悪しは決められない…と、私は以前、電田プロジェクト云々で記した。
さて、ここで、よく考えてほしい。果たして、郊外(田舎)では、太陽光や風力のエネルギー密度の低さが、それほどデメリットだろうか、と。単純にいえば、1万kWクラスのメガソーラーと大容量の蓄電施設があれば3千世帯分の電力が賄える。それに必要な土地はたった8haほどだ。迷惑施設ではないので、人家への近接設置も可能だ。もちろん、何もすべて太陽光でなくとも、風況がよくて人家に迷惑がかからなければ、風車も設置すればよい。中小水力・バイオマス・地熱などが豊富あれば、そちらをメインにしてもよい。
つまり、「電力需要が少なく土地の余っている郊外」ならば、自然エネルギーの密度の低さはさしたる問題ではないので、メリットのほうを迷わず選択すればよいのである。
もっとも、「経済性はどうなのか」という反論があるだろう。たしかに、火力や原発などの大規模集中型電源の発電単価は安い。だが、送電等を経由した末端価格ならどうか。世界的な傾向として、一般家庭などの最小電圧帯では、太陽光や風力がほぼグリッドパリティを達成しつつある。両者がクロスオーバーする日は、日本でもそう遠くない。ということは、個産個消・地産地消の経済性は、あとは蓄電池の性能とコスト次第である。
これに関しては今後、急速に改善していくので、心配しなくていいと思う。なぜなら、諸事情により、これまで電池屋が意図的にブレーキをかけてきた側面もあるからだ。
趣旨から外れるので、ここでは詳細は省くが、電池屋稼業は「個数を捌いてなんぼ」の因果な商売である。仮に「当社比で容量10倍・寿命10倍」の革新的な電池を世に出してしまえば、市場が爆縮してその企業自身も倒産してしまうと言えば、だいたい事情を察してもらえるだろう。これが今まで様々な電池の進歩が遅々としていた真の理由である。裏には当然カルテルもあった。大資本にとって大事なことは、電池の性能向上よりも、それをコントロールすることなのだ。
ただ、この構造は、新興国メーカーの台頭や新規参入の急増などで、近年になって崩れた。これからはメーカーが意図的に封印してきた技術なども表に出てくるだろう。むろん、企業は表向き否定するだろうが、要はそういうことなのだ。
電力とは、しょせんは「1kWhいくらか」であり、「安定供給ができるか否か」である。これまで後者の単語は電力会社の免罪符として濫用されてきた感があるが、郊外であるならば、地元の自然エネルギーだけでも十分に需要を満たすことができる。しかも、「国産エネルギー」であり「持続可能」だ。
送電や電力会社の人件費も含んだシステムトータル基準ならば、自然エネルギーによる地産地消が今現在、あるいは近い将来、火力・原発よりも経済的かつ省資源な手段であることは明らかだ。よって、ここから「実は都市と郊外の回路を別けたほうが合理的なのではないか」という可能性に気づかされる。
目的合理性からいえば、都市は大規模集中型電源で、郊外は自然エネルギーによる地産地消で、別々に賄ったほうがよいのだ。両者の回路を別けても何の問題もないどころか、そのほうが「互いに安くつく」「停電範囲を縮小できる」など、メリットが多い。
これまで同じ大型電源で都市と郊外に同時供給する必要があったのは、自然エネによる地産地消が技術的に困難だったからだ。つまり、今の電力システムはすでに時代遅れではないだろうか。
以上のことから、私は「都市と郊外の電力システムを別ける」改革案を、「真の電力改革と自然エネルギー普及策」で示した。現在の本土9電体制は、いうならば9つの広域回路を意味する。個産個消・地産地消が可能という自然エネルギーの長所を生かせば、より小さな独立回路の集合体に変えていくことができる。それによって、システムが地域ごとに細かく最適化され、あらゆる電力危機は常に局所化でき、かつ電力の最大経費である送電線を大きく削減することができる。
ところが、FIT派の自然エネルギー論者と彼らの影響を受けた政府の改革機関は、まったく逆に送電線をどんどん膨張させて、全国を一つの回路に統合しようとしている。このヨーロッパ方式の物真似は、結局は市場の制裁を受けて倒れ、負債として国民に圧し掛かると、私は危惧している。
どちらが次世代型の電力システムとしてふさわしいか、判断は観客の皆さんにゆだねられている。
(後半へ続く)
2012年08月23日「アゴラ」掲載
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