サイババは詐欺師ではないかと疑う人も多い。とくに“物質化”については、映像を見る限り、実に怪しい動きをしていると言わざるをえない。よって、疑われても仕方がないし、それは個人の自由だ。実際、何かを盲目的に信じるのはよくないことである。
しかしながら、「アガスティアの葉」とか「物質化現象」といった個別の事例にばかり拘泥していては、サイババの本質に迫れないのもまた事実である。
サイババを語る際に外してはならない二つの顔がある。
歌手としてのサイババ
一つは「歌手としてのサイババ」だ。彼は事あるごとに、みんなで一心不乱にバジャンを唱和することを推奨している。それによって心が浄化されるばかりでなく、環境もまた浄化されるのだという。また、それが霊性修行でもあり、神へと近づく方法でもあるという。
しかも、宗教家としてユニークなのは、彼自身が率先して歌うことだ。
サイババは比類なき歌い手だと思う。メロディアスな声質を持って生まれた上、いつも情熱を込めて歌う。私は音楽というジャンルに疎いのだが、彼の歌を聞くと、それがプロの歌唱力に拠ることくらいはすぐに分かる。彼はたくさんのCDを出しているが、それは宗教家の趣味・一芸の類いではなく、すべて本物の歌手としてのアルバムだ。
歌詞は常にクリシュナ、ラーマ、ゴビンダ、ギリバラといった神々や聖者を称えるもので、伝統的でありながら他方で大衆的かつ現代音楽的でもある。もしかして作詞・作曲まで手掛けているとしたら、彼は驚くほど才能に恵まれた歌手と言わざるをえない。
説法師としてのサイババ
もう一つは「説法師としてのサイババ」だ。彼はこれまでヒンズー教の伝統的な教義と平易な道徳が組み合わさった講話や演説を数限りなく行ってきた。日本ではそれほどでもないが、テレビ伝道師が活躍するアメリカのように、演説による宣教は世界的には宗教家として当たり前の行為とされる。特筆すべきはその内容と弁舌能力なのだ。
講話集としてまとめられたもの、あるいは同様の内容を反映した著作などを読む限り、極めて格調高い、というか、私が評価すること自体がおこがましい。
新約聖書、クルアーン、ダンマパダ、スッタニパータ、バガヴァッド・ギーター、論語、墨子、老子…といった古今東西の聖典、さらには新興宗教の教義やスピリチュアルものの教えまで、ある程度読んだ上で言うと、サイババのそれは冠絶している。
深遠な英知を含み、何度読んでも新鮮な発見がある。少なくとも、私には全知を動員してもこのレベルのものを書くことはできないし、人々を前にしてこのような気高い講話をすることもできない。
むろん、「別人が教義を作った」「スピーチライターがいる」と想像することは、私もやってみた。だが、サイババが大群衆を前にして、原稿やメモの類いをまったく見ずに、立て板に水のごとく、よどみなく話し続ける姿を見ると、やはり自分の中にある考えを自分の言葉で話しているとしか思えないのである。実際、アーシュラムに滞在した際、えんえんと一時間以上にもわたって精力的に演説を続ける彼を見たことがある。
以上、この「二つの顔」について、私の知る範囲では、あれほどのサイババブームにも関わらず、一般の話題になることはほとんどなかった。これはおかしな話だ。なぜなら、サイババがやっていることの大半はこの「歌」と「説法」だからである。
それゆえ、サイババについて評価するならば、この二つの分野をメインにしないと公正ではない。そして、実際そうしたならば、このレベルの宗教家が世界にどれほどいるだろうか、という現実に気づくはずだ。
とにもかくにも、2011年、サイババは逝った。彼は半世紀以上にわたって地道に教えを説き、社会に貢献してきた。そして膨大な「歌」と「説法」を残した。それこそが、人類に対する彼の最大の遺産にして、本当の意味での「奇跡」ではないだろうか。
2015年05月17日「トカナ」掲載
(*題名・見出し等は少し変更してあります。5月17日掲載の記事は前半と後半に分けました。当記事が後半分になります。)
2016.12.7 追記
このように、歌手・説法師としてのサイババを見なければ本当のことは分からないというのが私の考えです。そのため、とりあえずご本人の著作の一つでも読んでみてはいかがでしょうか。仏典やヒンズー教の聖典やイエスの教えと比べても何ら遜色ありません。訳者さんの努力もあるでしょうが、平易な現代語で書かれながら、とても格調が高い。
しかしながら、繰り返しますが、妄信するのもよくありません。マイナスの情報もあります。もっとも、誹謗中傷のために人々とメディアに対して物凄い大金をばら撒いた「何者」かがいたみたいですが・・・。世の中にはこんなことのために何十億円も出せる不可解なお金持ちさんがいるようです。とくに欧米メディアのとんでもない偏向については、最近になって知られるようになりました。
それに対する、サイババさんの言葉も紹介しておきます。
「片側には崇敬と敬意が山のように高まり、片側には非難と悪口が、やはりうず高い。両方にはさまれて、わたしはそのどちらに対しても手をあげて祝福する。わたしは賞められたからといって有頂天になることもなく、そしられたから気落ちすることもない。」
『すべてはブラフマンなり』(P105)
興味深いことに、誹謗中傷に対して側近や信者は怒り心頭なのですが、当のサイババさんは「それが私に何の関係があるのかね?」です(笑)。むしろ、「他人が善かろうが悪かろうが構わないでよい。そんなことに時間を浪費しないように」と諌める始末です。
物質化現象に関しては、驚くべきことに、本当の物質化と、ただの手品の、両方をやっていたというのが、どうやら真相ではないかと察せられます。なぜそんな誤解を招くようなことをしたのか、私にも真意はさっぱり分かりません。
最後に、本当の意味で日本にサイババを紹介したといえる青山圭秀さん。この人は私たちが想像している以上に凄い方かもしれません。それについてはまた改めて。
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