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トドメノフミ「2041年の選別」と「九月八日」の真相とは?

繰り返しますが、「金神の艮の文(トドメノフミ)」は発信者・出所不明という意味で、一種の怪文書であり、真偽のほどは不明です。

また、日月神示はみずからを「とどめの啓示」(艮の啓示)と称しているため、それとは別に「トドメノフミ」(艮の文)があったらおかしい、とも考えられます。

しかし、言ったように、内容は共通するものがあるんですね。仮に「トドメノフミ」が天理教の増井りんに降りた神示だとすれば、大本神諭・日月神示と同系統で、神様も同じですから、「重箱の隅」的な細かい矛盾は、気にするに値しないともいえる。

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2032年を真中にして前後十年が正念場か

ところで、他の神示と違って「トドメノフミ」がユニークなのは、干支を用いて、いわゆる「大峠」や「地上天国」到来の時期を明確にしている点です。

それに拠ると、どうやら2038年の午年(うまどし)から「準備期間」へと突入して、明らかに食糧が無くなるような事態が到来し、2041年の辛酉(かのととり)には、人類全体が「飛んで火に入る夏虫とミロクの民」とに選別されるようです。

ただし、こういうのは頭から鵜呑みにしないことも大事です。書いている私ですらよく分からないのだから、話半分、当たるも八卦、当たらぬも八卦でいいと思います。

ただ、この「2041年」という数字には、妙にしっくりくるものがあるんですね。

はっきり言えば、他の情報と一致している面があるのも確か。

たとえば、日月神示の「磐戸の巻 第16帖」にはこんな言葉がある。

「子(ね)の歳真中にして前後十年が正念場。世の立替えは『水』と『火』とだぞ。」(昭和20年1月14日神示)

私は拙著「神々の予定表」の中で、これは「2032年」のことではないか、と推測しました。というのも、2032年が「鼠年」だからです(単純だなあ)。

その「前後十年が正念場」ということは、2022~42年にかけてが人類の修羅場ということになる(もっとも「前後足して十年」と解釈する説もある)。そして、「水と火」とは、それこそ何百メートル級といった史上空前の大津波や、天から火の雨が降ってくるような超災害がこの間に起きることを示しているのかもしれない。

ところで私は、2032年の指定に関して、「やはりイエス預言のいう『大艱難』の年だからかもしれない」というふうに臭わせましたが、断言は避けました。

「大艱難は2030年代のいつかだろう」というふうに記しました。

トドメノフミだと、どうも2038年から破局が始まるらしい。しかも、それは戦争とか地震などではなく、何か全惑星的な異常現象というニュアンスです。

私は何らかの宇宙的災害かもしれないと危惧していますが・・。

そこから「ふるいわけ」が始まり、しばらくした2041年には「ミロクの世」コースか否か、人類がきっちり二手に分かれる、としているようです。

私は前々から「2021年に核戦争になるのではないか」という説を唱えています。プーチン・ロシアによる「最後の決戦」が行われる、という予測です。

2021年、プーチンは核戦争を決断する! 前編・ユダヤへの警告
さて、前回、次のロシア大統領もプーチンだろうと記した。つまり、2018年3月の大統領選挙を制して、とりあえず2024年5月まではプーチン体制なのだと。 それは誰でも予測可能。問題は、そうやって彼...

そして、トドメノフミの示す「辛酉」は2041年にやってくる。

とすると、仮に日月神示が「2032年を真中にして前後十年が正念場」と警告しているとするならば、私の説やトドメノフミとも、妙に内容が被ってくるわけです。

「九月八日」とは何を意味しているのか?

大本教の筆先(預言等の筆記)や日月神示には、「辛酉の年」と並んで、「九月八日」ないし「九月八日のこの仕組」という言葉がよく登場します。

ちょうど王仁三郎の「霊界物語」がそうであるように、この言葉にも幾通りもの含意があるようです。彼は「十二通りある」と言ったとか。

以下は、あくまで「九月八日」の持つ意味の内の「一つ」とご理解ください。

それは、どうやら「辛酉」とほぼ同じ意味らしい。

王仁三郎に直々に降りたとされる「伊都能売神諭」にはこんな言葉があります。

「辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替え立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」

このように、「九月八日」は、時代の革命を表す「辛酉」に対応しています。

日月神示が辛酉を指して「こわい」と同時に「よき」とも表現していることは前回の記事で説明しました。60年に一度訪れる辛酉の年は、それまでの古いサイクルが終わって、新しいサイクルが始まる転換点ですから、そのように見なされるわけです。

日月神示は「九月八日」についても同じ二面性を指摘しています。

「辛酉の日と年は恐い日で、良き日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、恐い日ざと申して知らしてありたこと、少しは判りたか。」

(「日月の巻」第十帖)

このように、「九月八日」は「辛酉革命」と実質的に同じ意味で使われています。

しかし、同意語だとしても、なんで「九月八日」と表現するのか、依然として謎です。「ふるい」とか「試験」とか「白黒」といった表現をしてくれたほうが、よほど「辛酉」に対応している。なぜよりによって「九月八日」なのか。

九月九日の「栗の節句」が「ミロクの世」を指していた?

どうやら「何か」を暗示しているんですね。

しかも、ヒントは、もしかすると、「トドメノフミ」にあるのかもしれません。

いや、正確には、それを降ろしたとされる増井りんと、出口ナオや岡本天明と同じ神が降りたとも言われている、天理教教祖の中山みきに。

「天理教教祖伝逸話篇」というエピソード集の中にこんな話があります。

「逸話篇七七 栗の節句」

教祖(おやさま)は、ある時、増井りんに、

「九月九日は、栗の節句と言うているが、栗の節句とは、苦がなくなるということである。栗はイガの剛いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又、渋がある。その皮なり渋をとれば、まことに味のよい実が出て来るで。人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで。」

と、お聞かせ下された。

つまり、九月九日は、「世」に例えるなら、それまでの「苦」がなくなり、すっかり新しい世界に移行した状態を指している。だから、その前の九月八日は、古い世界が終わり、新しい世界が始まる変革の「ターニングポイント」になる、というわけですね。

だから、「辛酉」とほぼ同じ意味と考えられる。

この「栗の節句」を念頭においているとすると、その直前の変革の時は、わざわざ「九月八日」と表現しなければならない必然性が出てくるわけです。

また、日月神示は、「旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。」(「松の巻」第三帖」)とか、「旧九月八日までに何もかも始末しておけよ。」(「松の巻」第三帖)などと語っていますが、この「旧」が「旧暦」であると同時に「古い世界」をも象徴しているとすれば、より納得がいきます。

さらに、上に挙げた王仁三郎の「伊都能売神諭」には「凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」とありますが(傍線筆者)、この「栗の節句」では「不老長寿と関わりの深い菊をめでる」習慣が人々にあったそうです。

いずれにせよ、九月九日には、私たち人類を長年にわたって苦しめ続けてきた諸悪が滅びて、ミロクの世に入る。神示いわく「うれし、うれしの世」です。

そして、それがトドメノフミによると2041年。その直前の夜明けを指して「九月八日(の仕組)」と表現しているのかもしれませんね。

(付記)

ちなみに、栗のことは英語でチェスナットchestnutですからね。マロンではありませんので、念のため。しかも、外国には変わった栗が多い。これ豆。

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